マクガフィンとは、とくに映画脚本で使われる専門用語だ。
ヒッチコックが得意だったので有名になった。
「物語上非常に重要なものと思わせる小道具。
実はその中身はなんでもいい。
例えばスパイがマイクロフィルムを奪いあう話では、
マイクロフィルムがマクガフィンだ。
奪いあう駆け引きが物語の重要な部分で、
マイクロフィルムの内容はなんでもよい」
時代劇で奪いあう巻物、青い鳥、
「ゴドーを待ちながら」のゴドー、「霧島、部活辞めるってよ」の霧島は、
マクガフィンだ。
マクガフィンは触媒に似ている。
化学反応を起こさせる役目をしながら、それ自体は変化しない。
変化する側に注目と主題がある。
手塚治虫の「火の鳥」における、
火の鳥がマクガフィンであることに気づいて、今回書こうと思った。
火の鳥は様々な時代と空間に現れる、謎の鳥である。
永遠の命をもち、その生き血や羽を手に入れれば永遠の命を得る。
正体は謎だ。
「火の鳥」という連作は、
火の鳥に出会い、人生を変えさせられてしまう人間たちのドラマを描いたものだ。
火の鳥自体に思考や意図やドラマがあるわけではない。
だから火の鳥は小道具であり、マクガフィンだ。
僕が火の鳥を読んだ大学生時(手塚の死去の前後)、
火の鳥に違和感があった。
火の鳥に意志があるように描かれていたからだ。
それは手塚の絵柄のせいかも知れない。
あまりにも生き生きと描かれた火の鳥は、
自分の意思や目的があるようにみえる。
マクガフィンは小道具だ。
それ自体にドラマや変化があってはならない。
しかし火の鳥は、小道具というより、登場人物のような描かれ方をしていた。
これが違和感の正体だ。
火の鳥ではなく、火の鳥の羽、という小道具であれば、
マクガフィンであることは明らかだから、
「それを巡る人々の物語」という文法の範囲内におさまる。
火の鳥の批判点は、マクガフィンを登場人物にさせてしまったことだ。
もっとも、完結していない物語だから、
火の鳥自体の物語が創作されたかも知れない。
(それはあとで述べるように、おそらく出来ない)
ミスリードだったという可能性もある。
マクガフィンの主な役目は、
話を引っ張ることである。
物語というものは、頻繁に焦点がぼやける。
マクガフィンは、存在自体で謎である。
その中身を知りたいという欲望があるかぎり、
人々は行動し、中を開けて確かめようとする。
書き手の側から見れば、マクガフィンは便利な道具なのだ。
謎を引っ張り続ければ、
焦点がぼけて話の方向性が見えなくなって作者も観客もどうしていいか分からない、
あのダメな時間帯を乗りきれるからだ。
マクガフィンがあれば、それに関連したマクガフィンを増やすことも出来る。
偽物や、もうひとつの○○、というパターンだ。
巻物を巡る話では、大抵偽物をつかませたり、つかまされたり、
あるいは巻物だけではダメで、その裏巻物も必要である、
などのような展開になることも多い。
「デスノート」におけるデスノートは、多くの場面でマクガフィンの役目をしている。
この作品の成功は、デスノートという複雑で面白いマクガフィンを発明したことにある。
この作品の失敗は、マクガフィンによって引き起こされる人間ドラマが、
最終的には面白くなかったことだ。
謎を引っ張る、ということについて、
マクガフィンは強力な道具になる。
しかし、これを謎にしすぎると、手痛いしっぺ返しを食らう。
謎を込めすぎて、ネタバレが難しくなってしまう、という現象だ。
これだけ引っ張ってきたのだから、
「なるほど、実はそうだったのか!」
という瞬間を、皆は心待ちにしている。
しかしそのハードルを越える謎の正体を、創作出来ないのである。
出来ないから、ずるずると話を引っ張り、
なんだかよく分からない終わりを迎えるか、未完になるか、
なんだか中途半端なものになる。
「GANTZ」のガンツ玉とゲームの意味、
「アキラ」におけるアキラ、
「ガラスの仮面」の紅天女、
「ベルセルク」の蝕(ベヘリット)、
「幻魔大戦」における東丈失踪の理由、
「エヴァンゲリオン」における数々のマクガフィン、
「マルホランドドライブ」の数々のマクガフィン、
「殺人の追憶」「ゾディアック」の真犯人、
「ミスト」の霧現象の正体、
「デスノート」におけるデスノート(死神の目なんてのもあったなあ)、
「火の鳥」の火の鳥。
これらは、人々を駆り立て、ドラマを形成する原動力、触媒としては素晴らしく面白い。
正体を知りたいという主人公たちの思いと、
観客の思いはシンクロする。
しかし、我々が満足する答えは、おそらく得られない。
それは、人間ドラマが主体でなくなってしまうからだ。
マクガフィンの定義どおりに従えば、
その正体はなんでもないもので、
それをめぐる人間ドラマが主体でなければならない。
ファムファタールものにおけるドラマは、
人間の崩壊が主題で、女は変化しないものなのだ。
本来、人間ドラマを描くべきものが、
マクガフィンを描くことが主体になってしまうと、
主客が逆転し、
物語は失敗する。
霧島やゴドーのマクガフィン的成功は、
それらを出さなかったことにある。
(今一つ成功していないが「エレファント」も乱射犯自体の出て来ない、
同じ構造だ)
問題は、それをめぐる人間ドラマの面白さだ。
マクガフィンは、それを起こすきっかけに過ぎない。
人々の動機にはなりすれ、そのマクガフィンの解明が主体になってはならない。
「火の鳥」は、未完ゆえに、謎を永遠のものにした。
上掲作品群も、謎が解かれることはないのではないかと思う。
謎を永遠にすることが、それらの神秘性を生んでいることに、
おそらく作者自身も気づいているからだ。
マクガフィンは何故映像的に便利なのかを考えてみるとよい。
場所、人間、小道具というカメラ前の三大要素のひとつ、
「小道具」の役割のひとつなのだ。
映像とは、このみっつを使って語る芸術である。
2014年03月24日
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