そのコンセプトをいくら煮詰めても、
いいものは出来ない、ということがある。
それは、最初のコンセプトが間違っているのだ。
コンセプトはいいと思うのだが、
なかなかいいものが出来ない、なんてことはない。
いいコンセプトは、次々にいい具体を生み出す。
新しくて、斬新で、新しい「良さ」の概念で、
次々にそのコンセプトに従えば、
良さげな具体が生まれるのが、
いいコンセプトだ。
大失敗映画「ガッチャマン」のコンセプトは、
おそらく「選ばれし五人の若者が、色々ありながらも侵略者ギャラクターを倒す」
だったのではないか。
このコンセプトから、傑作は決して生まれない。
試しにこの一行に当てはまるプロットを考えればよい。
どれだけ唸っても、これを傑作にするには、
「何か」を足す必要がある。
何かを足す時点で、コンセプトとしては不十分だ。
僕の書いたガッチャマン(作品置き場参照)は、
「テロリストに親を殺された孤児たちが、復讐と正義をなす」
というのがコンセプトだ。
上のほうのコンセプトに足りないのは、何故?である。
何故ガッチャマンは選ばれたのか、
何故ガッチャマンはギャラクターを倒すのか、
が、コンセプトからは不明なのだ。
世の中に、正義と悪の戦いは、死ぬほどある。
戦いは無益であり、何も生まない。
その中で、何の意味があるかを、決めなければならない。
侵略者を討て、というだけでは、あまりに単純すぎる理由だ。
一方僕の書いたものには、その理由がはっきりとある。
出自から悲劇を持つ者の、個人的復讐だ。
おそらく、単なる個人的復讐が正義より優先されてしまう場面なども
想像できる。
死んだ筈の親が生きている、なんてアイデアも想像できる。
燕の甚平は、他の4人ほどテロの記憶がないから、
彼らの必死さが分からなくてイライラする、なんてアイデアも想像できる。
コンセプトは、このように具体的なアイデアを生むものである。
よいコンセプトから生まれたものは、
全てのオリジナルなアイデアが、
コンセプトから生まれたように並んでいる。
だから、統一感があり、全てがひとつにまとまるように、
有機的に機能する。
物語とは、そのような美しい有機体である。
ダメなコンセプトを救うには、
それとは関係のない、別の雑多なアイデアを足さないと成立しない。
それらは雑然としていて、
世界が整理されないまま、どこかは良かったけどどこかは良くない、
というものになる。
いわばフランケンシュタインだ。
どこかは腐りはじめていて、継ぎはぎで醜いのだ。
コンセプトを書こう。
そのコンセプトをフラットな目で眺めていて、
このコンセプトだとしたら、
こういう面白い具体例がある、
と、次々に思いつくだろうか。
既に書こうとしている、あるいは、
半ば書いた物語は、
そのコンセプトから生まれた具体的なアイデアの山に
なっているだろうか。
コンセプトとアイデアは、卵と鳥の関係である。
どちらが先に生まれてもよいし、
どちらかがどちらかに影響を受けて、変わってもよい。
全てのアイデアが、ひとつのコンセプトから生まれたように整理出来たとき、
具体的なアイデアの足し引きが、
コンセプトに従うかどうかで判断出来るようになったとき、
コンセプトから思いついたアイデアが、
ほぼ全部具体化されて、その中でもベストが、一番オイシイ所に使われているとき、
そのとき、はじめて作品はひとつの有機体になる。
そのときに、はじめて「ああ、最後まで書ける(見えた)」と思うのである。
そうでない限り、書きはじめてはいけない。
きっと途中でこんがらがって、挫折する。
(挫折した経験を持つ人は、必ずそうだ。
最初に出したアイデアにしがみつく。
コンセプトが大事なら、そのアイデアを捨てるべきなのに、
最初のアイデアも、中途半端なコンセプトも、両方維持しようとして、
行き止まりにぶちあたる)
コンセプトを煮詰める、アイデアを考える、
とは、そのようなことを言う。
間違ったコンセプトからは、
いいものはどれだけやっても生まれない。
次々にいい具体的なアイデアが生まれないなら、
それはコンセプトが間違っているか、
アイデアの一連がまだバラバラなのかの、どちらかだ。
コンセプトや、アイデアの組、という入り口が間違っている。
別のコンセプトを書く(マイナーチェンジでも、全く新しくしてもよい)
ことを、すすめる。
2014年03月23日
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