いつの頃からか、映画とはエンターテイメントである、
という言葉が巾を効かせ、
「内容の薄さを誤魔化す言葉」として誤用され続けている。
誤用といっても、おそらく意図的な誘導である。
映画は間違いなくエンターテイメント(娯楽)である。
だが、もう少し言葉を足すと、
「主人公の人生の一断面を見る娯楽」だ。
人生の一段面、という娯楽になっていないレベルの低い脚本を、
エンタメという一見キャッチーな言葉で誤魔化しているのだ。
エンターテイメントには、
例えばハリウッドのバリバリのアクション映画がある。
ドカーンボーンばっかりやっていて、
難しいことはどうでもいいじゃねえか、という映画だ。
これには一定の需要があり、作られ続けるには理由がある。
それは、人には危険なものを見たい、という欲望があるからだ。
爆発、カーチェイス、スタント、破壊、
これらは、生でやることが原則である。
その危険が娯楽の対象になる。
(その意味では剣闘士を見るローマ市民と同じだ)
決してCGを使ってはいけない。
危険を見るのは代償行為だから、
そこに「誤魔化し」があると、楽しみは半減する。
スクリーンを見ることがそもそも嘘なのに、二重に嘘があるからだ。
二重に嘘をつかれるぐらいなら、
絶対安全な遊園地へいくほうが、一重の嘘であり、
危険の代償行為としては「生」である。
(近年、ライブが何故復権しているのか。
デジタルの加工により、二重三重の嘘になっているからだ)
危険の代償行為以外にも、エロの代償行為がある。
ラブロマンスやAVである。
AVにおける疑似本番(挿入していないのに挿入しているような演技をし、
モザイクをかけて誤魔化すこと。飯島愛は疑似本番で有名だった)
は最悪だ。二重に嘘をついているからだ。
ラブロマンス映画のカップルが、中の人もつき合うと覚める。
別れてしまったらもっと最悪だ。嘘のベールが剥がれるからだ。
危険やエロチシズムは、
刺激である。
我々の日常にない、非日常のそれを求めるからこそ、
我々は映画を好む。
似たような刺激のジャンルに、笑いがある。
80年代から90年代にかけて、
これら3つの刺激をエログロナンセンスといって、
それだけの刺激を求め続けた傾向があった。
だが人間には、慣れというものがある。
だから刺激はエスカレートする。
80年代は、「過激」というキーワードで見ることができる。
(当時の新聞のテレビ欄や雑誌は「過激!!○○」という言葉のオンパレードだ)
刺激を強め続けることが、正義であった。
刺激を強めるには金をかける必要がある。
結局ハリウッドの金には勝てないから、
ハリウッドアクション映画は、まだ需要があり続ける。
(極端な例は「ベン・ハー」だ。物語中盤、
闘技場の戦車レースは、闘技場を建造し、戦車を走らせてぶつけさせた、
ノー合成の一発撮りだ。
おそらくこれを越える生のアクションは、今後生まれないだろう)
これが、CGの登場で一変した。
全ての刺激は、CGでつくれるようになった。
登場した瞬間こそセンセーショナルに扱われたが、
人は刺激に慣れる。
かつて「ジュラシック・パーク」で恐竜に驚いていた我々は、
いまやトランスフォーマーの技術的には何倍も上回る筈の、
「凄い」CGには驚かない。
一方邦画だ。
邦画でもハリウッドのような、
エンターテイメント作品がつくれる、
という志の高いことが、
初期のエンターテイメントだったと思う。
刺激を程よく取り入れ、
単なる文学的悲劇に陥らず、
笑って泣けて、ハッピーになる、エンターテイメントのいい部分
(ディズニー映画のような)を当初は指していた筈だ。
これには、脚本的な開発が不可欠である。
以前論じたように、物語の刺激をつくることは、
表面的なことをつくるよりはるかに難しい。
あなたが直面している脚本を見ればそれは明らかだ。
全く新しい、
単なる文学的悲劇に陥らない、笑って泣けて、ハッピーになる
物語を、そうそう量産できないだろう。
おちいる事は、安直なエンタメっぽさ、
という表面的な刺激で切りぬけることだ。
ヒューマン的な要素をただ入れた難病もの映画(泣ける映画)ブーム、
人気原作を持ってきて、適当なCGでごまかしたチープな映画、
それらは、真の意味でのエンターテイメントではなく、
「エンタメの匂いがすること」だけでエンタメを名乗る。
本当にハッピーエンドを描くためには、
人間の深いところに潜る必要がある。
普遍的でありがちでない題材を探し、
不幸になる様を、誰にでも出来るように感情移入させて、
そこからのはいあがりを、力強く書きあげ、
しかもテーマでうならせなければならない。
ハッピーということに、真摯に向き合わない限り、
新しいその物語を書くことは出来ないだろう。
それを書くのは相当な努力がいる。
その脚本の打ち合わせをするのにも相当な技量がいる。
それは、しんどい。
だから、ハッピーパウダーをかけたハッピー風味のものを、
ちょいちょいとつくってエンターテイメントだ、と言い張るのである。
本当のハッピーとは、
不幸を描くことでもある。それらは表裏一体だからだ。
その状況におちいった主人公がそれを克服するとき、
彼の最も大事なものと結末を引き換えにする必要が出てくる。
それをなしとげた主人公は、永遠の変化をし、
それは物語のテーマとなる。
映画とは、そのような、「彼の人生」を描く娯楽である。
自分にこのような不幸が起こったらどうするだろう、
彼のこの人生の意味は、自分にも意味のあることだ、
そう思うから、物語には価値があるのである。
映画は、人生を描く娯楽である。
人生を描いていないものは、エンタメというニセモノにすぎない。
ガッチャマンのDVDポスターに、「新世代エンターテイメント」
とアオリ文句がついていて、腹を抱えて苦笑いした。
2014年03月24日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック