ビリー・ワイルダー「情婦」を、はじめて見た。
タイトルの引きの弱さに、ずっと見ていなかった作品だ。
(邦題が原題とあまりに違いすぎて、長年非難されていると知った。
おれが邦題担当なら、「反対側の証人」とでもするかな。
原題「検察側の証人」は、日本語だと堅苦しいので)
法廷劇、人間ドラマの傑作である。
小道具について学ぶなら、ビリー・ワイルダー「アパートの鍵、貸します」だ、
と僕はよく言うのだが、
伏線(とどんでん返し)について学ぶなら、ビリー・ワイルダー「情婦」だ、
と追加することにした。
以下ネタバレにつき、未見は立ち入り禁止。
(実は「情婦」は、結末について他言しないでください、
と字幕の入った最初の映画だそうだ。
角川映画の宣伝担当に見せてやりたいものだ)
伏線には、二種類ある。
驚くべき伏線(そうだったのか!)と、
笑わせる伏線だ。
この脚本は、前者が実に練り込まれていて、
なおかつ後者も練り込まれて効いている。
(恐らく、前者の大部分は原作者アガサ・クリスティが、
後者はビリーの得意とする台詞劇だと思われる)
後者の好例は、
謎の女がブツを握っていると電話があったあと、
騙されんぞと長い前ふりをしてどっかと座り、
即立ち上がって「出かける」という場面、
さんざん看護婦の目を盗んでココアと偽って
中身をブランデーにしておいた魔法瓶を、
ラストの「ブランデーをお忘れですよ」の台詞で受ける、
などがある。
ここまで粋な伏線の使い方だけでなく、
くすりと笑える台詞劇や芝居の応酬に、
前ふりを長く、一撃でそれをひっくり返す、
という、笑いの原則がそこら中に散りばめられている。
前ふりを伏線、一撃をその解消ととらえると、
これは伏線の研究に値する。
伏線は、
英語ではforecast、その回収はpay offという。
伏線と回収という難しさでとらえるより、
使う前に前ふりしておくこと、
それを精算すること、
という概念で考えるほうが、
我々書き手の概念に近い。
「伏線と回収」だと、
伏線の方に重点が置かれ、
回収はちょっとしたことに勘違いされがちた。
伏線のうまい使い方は、ペイオフのほうにある。
気持ちよく、一撃で精算されることが、
映画では大事である。
(僕はより和語的に、係り結びといったりする)
伏線は、伏線から考えるのか、
ペイオフから考えるのか。
どちらから考えてもよいと思う。
ワンピースの伏線考察などを見ると、
これをあとで使うんだろうな、という前ふりチェックでみちあふれている。
これは連載形式で長く読まれる作品だからこその楽しみで、
映画という二時間の伏線の使い方とは違うことに注意されたい。
伏線は、「さりげなく提示されていたことが、
あとで全く違う意味を持っていたこと」のように思われがちだが、
これは誤りだ。
さりげなく提示されていたことは、
記憶に残らないからだ。
強烈に提示した中で使われたものが、
あとで使われるからこそ、あのときのあれが!
という驚きを生む。
(これについては、「伏線は初出にしこむ」あたりで議論した)
これはあくまで観客側の意識から見た伏線であり、
我々書き手の側から見た伏線ではない。
伏線を忍ばせる場所は、強烈に記憶に残る場面である。
例えばラストのどんでん返しの場面の最中、
被告人の若い浮気相手があの人だったとは!
の場面が好例だ。
この女は、傍聴席に最初からずっといた、
エキストラのような扱いになっている。
さりげなく提示されていたわけではない。
ミスリードする、強烈な場面があった。
それは、看護婦の文脈である。
主人公の弁護士に、めんどくさいオバサン看護婦がつきまとう。
裁判開始の初日の立ち上がりから、
一時間おきに飲まなければならない薬のタイマーを鳴らしに、
傍聴席に陣取りに来るのだ。
職務に忠実すぎてめんどくさいオバサン、
というのはこの前の場面からずっと続いている。
葉巻を目を盗んで吸い、
薬を飲むココアの魔法瓶と偽って、
中にブランデーを仕込んでいる。
その丁々発止の追いかけの文脈に、
この傍聴席の場面がある。
裁判の進行には関わらず、看護婦のタイマーが鳴る。
一時間おきに鳴る、と言っていたが忘れてた(これも小さな伏線と回収)。
オバサン看護婦は口やかましく(裁判所なのでパントマイムで)
薬を飲めと指示、弁護士は嫌々ココア(のふりをして密かに入れたブランデー)
で薬を飲み、これでいいだろう?と看護婦に見せてOKをもらう。
この薬は一体何錠あるのか、
机の上に並べ始める。
それが検察側の陳述の退屈な場面、を同時に意味する。
整列させたり並び替えたりしていた沢山の薬が、
あと5錠になり、時間経過を示す。(小道具の幾通りもの文脈の使い方よ!)
この面白い場面の中、
傍聴席でオバサンが軽々しく話しかけた、エキストラの女がいる。
オバサンの厚かましさ、めんどくささを強調する場面だ。
ここに、仕込まれているのだ。
伏線のミスリード、というのは、
この表のストーリーの面白さ全てである。
この一連の強烈な場面で、
伏線である女が裏に仕込まれている。
観客からすれば何気ない場面のあの人、
だが、
我々書き手からすれば、巧妙に表に注意を向けながら、
裏にもスポットを当てているのである。
(実際、「殺人事件の傍聴ははじめて」と女に台詞を言わせ、
女同士はどこでも仲良くなるなあ、と思わせるようにしている。
この一場面だけではなく、傍聴席の看護婦の相手役として、
数回登場する。このときも表は看護婦だ)
当然のことながら、
この表のストーリーこそが、
観客が焦点を保ち続け、夢中になっているストーリーだ。
その場面が強烈であればあるほど、
この場合では、オバサンのうっとおしさと、
それをかいくぐる弁護士のやりとりの面白さがあるほど、
この場面は記憶に残る。
まずは、このような表のストーリーを書けない限り、
そこに伏線が仕込めないと覚悟しよう。
どうでもいい場面の更に何気ない要素は、
思い出して貰えない。
そして上手いのは、
被告人の証言を聞く場面、
「偽証罪は大きな罪」である文脈の中、
弁護士側が聞き込みをして得られなかった目撃情報(これも伏線)が
得られるところ。
旅行会社で海外旅行の相談をしていた、という目撃。
これは、殺された夫人を殺してトンズラする計画では、
という文脈を、
パブで知り合った女とたわむれにやっただけだ、
という言い訳を引き出す場面に使われている。
これがラストのどんでん返しへの伏線になっているとは、
誰も思わない。
物語の焦点は、偽証罪についてだからである。
疑いを正直で晴らす、という場面だからだ。
このときの女が、浮気相手の若い女であり、
最初に傍聴席にいたエキストラっぽい女だったのだ。
この驚きは、「二重のどんでん返し」と呼ばれる名ラストに、
直接繋がることになる。
この映画は、ラストで二重のどんでん返しがある。
最初のどんでん返しは、
無実と思われていた被告人が、実は殺人犯だったことだ。
(日本語で書くと分かりにくい。
この物語の焦点は、guilty,or not guiltyという両極端を決めることである。
生きるか死ぬか、世界滅亡か生き残るか、
二つの両極端を巡ってどちらかに帰結させるのは、
欧米流のストーリーテリングの基本中の基本だ。
Aか、not Aか、という両極端論法に、実は法廷劇は忠実な物語構造なのだ、
と僕はこの映画を見るまで、敬遠して気づいていなかった)
焦点に関する、真逆のどんでん返しだ。
そして反対側の証人に立っていた妻(マレーネ・ディートリッヒ)が、
偽証罪を背負ってまで、彼を無罪にしたかったのだ!
決定的だった例の手紙の証拠をもたらした
(この手紙を法廷で見せるときも、上手い方法を使っている。
青い便箋にイニシャル、を彼女自信に言わせるために、
偽のバミューダパンツの領収書を使うのだ。
ラストシーンの為の、これも伏線なのだが)のは、
変な女だったが、それが妻の変身してものだった!
(彼女は女優だ、という伏線の解消!)
何故なら愛しているから!
という真の理由がふたつめのどんでん返しである。
ところがこれは三番目のどんでん返し、
若い女と海外へ逃げようとしていた、という伏線のペイオフにより、
衝撃的ラストを迎えることになる。
後半二つのヤマで、
これまでの伏線がパズルのようにひとつになる。
妻は被告人を殺し、偽証罪と殺人を背負ってつかまることになる。
これが正義なのか、悪いのは誰なのか、
について釈然としない弁護士に、
バミューダ休暇いきの汽車の時間と執事。
しかしそれをオバサン看護婦がキャンセルする。
あの人を弁護するんでしょう?と。
上手い。何もかも上手い。
(相変わらず小道具の使い方が上手く、
休暇の象徴として、デカイバミューダパンツを出している。
看護婦の一貫した主張は、バミューダ休暇に弁護士を連れていくことだ。
しかしそれをラストでひっくり返すのだ)
そのあとに「ブランデーをお忘れですよ」の台詞だ。
全部ばれていた、しょうがねえな、と大人の笑いの余裕すらある、
粋なラストシーンである。
「アパートの鍵、貸します」でもそうだが、
ラストの台詞の粋さは、たまらないぐらいによい。
伏線を仕込むコツは、天丼である。
一度ある文脈で使ったあることを、
あとで別の文脈で使うことだ。
伏線から考えても、解消から考えても、
どちらでも構わないが、慎重な計算がないと成立しない。
何となくここに仕込む→鮮やかな解消→リライト時より巧妙に仕込む、
が恐らくは現実的な完成のさせかただと思われる。
ミスリードするなら、その表のストーリーが面白おかしく書けなければならない。
その表のストーリーですら、伏線と解消を使いながら、
面白おかしく進んでいく。
ここ伏線ですよ、は、大人の娯楽ではない。
ああっ!と唸らなければ、伏線ではないのだ。
ちなみに、初見では分からなかったが、
解説サイトで知ったことがある。
妻は、実は偽証罪には問われないということ。
何故なら、彼女の夫の殺人についての証言は、
実は本当のことばかりなのである。
(弁護側はこれを嘘だ、という追い込みで被告人を無罪にした)
たったひとつしか、彼女は嘘をついてない。
「彼を愛していない」ということだけ。
それすら、愛する夫を守るための嘘という芝居。
なんという良くできた脚本であろう。
こんな大傑作を見てしまったら、
最近のどうでもいい映画なんて、見てられねえや。
ということで、是非とも伏線やどんでん返しについて研究したければ、
「情婦」を繰り返し見るとよいだろう。
なによりもこの脚本が優れているところは、
主人公のラストの、正義をなそうという決断だ。
それは、今まで散々張ってきた伏線への、
彼なりの答えなのだ。
この最後のペイオフこそが、全ての伏線を解消し、
脚本が最もやらなければならない、
「人間を描くこと」を成し遂げている。
ビリーは大体僕と同じ年でこのホンを書いた。
負けてられない、といいたい所だが、
同じ土俵では勝てないだろうから、別の頂を目指すしかなさそうだ。
2014年03月26日
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最後の法廷での殺人についても、老弁護士のチャールズ・ロートンが誘発しているとか。例のテストのメガネでナイフに光を当ててキラキラさせているそうです。
ご存知でしたらすいません。