動画コンテンツという言い方は嫌いである。
物語以外の、見せ物を何でも含んでしまう言い方だ。
刺激のあるものであれば、
びっくり映像、お笑い、セクシー映像、歌踊りの音楽もの、
ちょっとしたトリック映像、ホラー映像、暴露もの、
非ストーリー型のものは全て動画コンテンツになる。
ネット動画の時代になって、いわばバラエティー系の
映像コンテンツが山ほど増えた。
この刺激は、物語で得られるものと何が違うのか。
動画コンテンツの刺激は、短い時間にピークを迎える。
15秒、数十秒や数分が限界だ。
展開が多少あったとしても、ひとつの刺激に集約されるものである。
つまり点である。
オシャレだったり、笑えたり、すげえってなったり、
びっくりしたり、ノリノリが楽しかったり、かわいかったり、
ひとつのコンテンツがひとつの刺激に対応するのがよい。
(逆に複数の刺激にすると、刺激のキャラが立たず、
ぼんやりしたものになる。ひとつにひとつが原則であり鉄則だ)
点の面白さは、一点豪華主義だ。
それ一色にそまる、ただ一点である。
派手で、目立つかも知れないが、それ以上でも以下でもない。
一方、物語の面白さとは、展開の面白さである。
興味深い発端から始まった事件が、
いかに展開して、どう落とすかという面白さのことだ。
長さによって展開部分の分量が決まる。
主に展開の面白さ(連続ドラマのように続きが気になる)なのか、
発端と落ちの面白さ(例えば「世にも奇妙な」のような短編の面白さ)なのか、
全ての面白さ(映画は、展開の面白さも落ちのキレも、両方必要)なのか、
要求する面白さは尺によって違う。
問題は、
動画コンテンツの面白さと、物語そのものの面白さが、
混同されていることにある。
例えば、物語冒頭の興味深いシチュエーションは、
ヒキの強い、刺激的な点の面白さである必要がある。
「男と女の体と中身が入れ替わる」(転校生)、
「未来から自分を殺しに来る男が来た」(ターミネーター)、
「夫を無実にする裁判で、味方の筈の妻が、反対側の証人として出てきた」(情婦)、
などの設定的な面白さ、
「海中から死体や船の破片をカメラがうつし、
そのまま空中へ、建造中の船が。その中の男のアップまでワンカット」(レ・ミゼラブル)、
ド派手なアクション(多くのアクション映画)、
などの映像的快感、
「小便をする場所がなくて、延々探す」(バッファロー60)、
多くのコメディ映画の冒頭のギャグ、
などの笑い追求の部分、
などは、点の面白さであり、
線の面白さではない。
そのシチュエーションが変化し、それがどうなっていくのかという興味が、
線という変化の面白さだ。
にも関わらず、「面白さ」を混同してしまうことが、
最近よくある。
とくに最近のCMでは、
点の面白さしか知らないのではないか、
と思えるものばかりになってきて、
展開や落ちの面白さという、線の面白さが皆無になってきている。
(四コマ漫画もそういう傾向だ。
かつては落ちにきちんと落ちてたものが、
シュールや不条理の名のもと、落ちなくていいことになっている)
点の面白さのほうが、
パクりやすい。真似からはじめられる。
浅い話し合い(専門家以外にも)で、共有できる。
見た目の企画書が、一見でわかる。
一点豪華主義で、予算配分がつくりやすい。
恐らくこの利点で、今どこの現場も、
点の面白さの、動画コンテンツばかりになってしまった。
線の面白さの弱点は、
面白さを理解するのに、きちんと理解しなければいけない点だ。
つまり、持続的思考が要求されるのだ。
打ち合わせにアホが一人入っただけで、
持続的思考は共有されない。
日本のドラマが詰まらなくなったのは、
線の面白さよりも、点の面白さのほうが巾を効かすようになったからである。
それは、企画書だけで脚本を書かずにビジネスを進めるからだ。
実際の線の面白さを先送りにし、
企画書だけで出来たことにしてしまう。
たとえばキムタクがアンドロイド役?!
なんてのが典型だ。
キムタクがアンドロイド、という点の面白さはある。
しかし、そのアンドロイドがどうやって生まれ、
何について内面的問題を抱え、
何のために冒険に乗りだし、
どのような展開をし、リスクを負い、成功や失敗をし、
ついには幸福を得るのか、
というお話しの面白さは、
キムタクがアンドロイド?!以上には、
考えられていない。
人気アイドルが○○役?!
○○が、△△というシチュエーション?!
○○のジャンルで活躍する、新ヒーロー△△!
などの最近よくあるフォーマットは、
全部点の面白さだ。
絵を一枚描いてそれでおしまいだ。
そこから何が起こり、どんな障害があり、
心の内面や問題はどこにあり、
どうやってモチベーションを見いだし、
それをどうやってドラマチックに解決するか、
それは結局は人間の何を描いているか、
(そしてテーマは何か、それを今現代につくる意味とは)
などが、何も考えられていなく、
企画書だけでビジネスが進むことが、
日本のドラマが詰まらなくなってしまった理由だ。
線の面白さは、あなたも苦労しているとおり、
創作することは凄く難しい。
この面白ささえつくれれば、
あとの刺激物など、上乗せするのは簡単である。
線の面白さが先にあるべきで、
点の面白さは、あとからつけたせる。
地味なシチュエーションを派手にしたり、
金をかけたり、
それこそ、
オシャレだったり、笑えたり、すげえってなったり、
びっくりしたり、ノリノリが楽しかったり、かわいかったり、
そのように書き直すことは、
線の面白ささえ出来ていれば、簡単だ。
クライマックスなどは、そのように書く典型だ。
やることリストや結末が抽象的に決まっていれば、
舞台や表現を、派手に絵的に面白くしていくことは、
予算が注ぎ込めるのなら、いくらでも出来る。
(そしてアホなマスコミは、点刺激の面白さしか報道しない。
きちんと劇評の出来る雑誌新聞は、あまりない)
逆に、点だけを言われても、
そこから線をつくることは難しい。
なぜなら、線の面白さとは、変化の面白さだからだ。
ある状況が二転三転していく面白さであって、
一点の面白さとは違うものである。
線は線として思いつかないと、線の面白さには決してならない。
(僕がよくやるのは、一幕の問題部分を点の面白さになるようにつくり、
解決法をそのあとに考え始めることだ。
つまり自分への無茶ぶりである。これを面白く解決出来れば線の面白さになる。
多くの連載漫画では、そのような先を考えていない展開がアドリブで繰り出されている。
連載が売れればよく、最終回の頃は人気がなくなってもいい漫画と、
きちんと完結したパッケージとして存在する映画では、
映画のほうが面白い解決の責任が大きい)
今、どこかで、ドラマやCMなどの打ち合わせがされているだろう。
それは点の面白さの話をしているのか、
線の面白さの話をしているのか、
自覚して話している人は何人いるだろう。
先日も、線の企画を持っていったら点でいいという結論だった。
若いやつがつくった短編映画の仮編集を見たら、
点を順番に描いただけで、線の面白さはひとつもなかった。
ペプシCMの批判点は、点であり線でないことだ。
身の回りで続くということは、何かある。
線をつくることは、もはや今の集団の知性では出来ないのだろうか。
それとも俺の環境が悪いのか。
動画コンテンツは、今後も珍重されるだろう。
多分それは、物語という刺激とは、異なり続ける予感がする。
ドラマや映画の衰退は、落ちの弱さに象徴されるかも知れない。
2014年03月29日
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