2014年03月31日

視点の欠陥

先日みた映画版「偉大なる、しゅららぼん」は、
「映画としての脚本」上致命的な欠陥がある。
最も大事な、感情移入が出来ないことが表面的な問題で、
その奥には視点の問題がある。

小説は未読だが、それはどうでもよい。
映画脚本として何がよくないかについて議論する。


ちなみに以下は、別の原稿とした書いたもののコピペだ。
多少本ブログとの内容も重複するが、
わかりやすい議論にするためにそのままとした。
改行もみにくいかもだが、分量が多いのであきらめた。


「しゅららぼん」の脚本的欠陥は何か。大岡俊彦

 ようやく「偉大なる、しゅららぼん」を見た。監督は、ずいぶんと頑張っている。脚本のスペックが2として、5になるように演出で上乗せしている。でも映画としては2が妥当なところだろう。脚本が10なら13ぐらいになったかも知れないのに。

 脚本が問題だ。映画脚本として致命的な欠陥がある。

 結論から先に言うと、「三人称である映画を、一人称小説で進めたこと」である。


 映画は三人称文学である。登場人物はカメラの前に平等だ。登場人物はカメラを見ない。それは、カメラは登場人物ではないということを意味する(主観カットはその例外)。カメラはそこにいないものとして、登場人物はおはなしを進める。カメラは誰でもない。
 一方小説は、多くは一人称文学である。書き手「私」だけが特別な立場にいる。あれこれ起こる珍事件を記録し、感想を述べる。「私」がカメラだとすると、小説は私というカメラに向かってカメラ目線で登場人物がしゃべりかけることと同じである。したがって、「私」は、珍事件の体験者ではなく、珍事件の「レポーター」である可能性が高い。珍事件には関わらず(手を染めず)、珍事件を傍観する立場にあるのだ。ワトソン博士がホームズの活躍を記録したシャーロック・ホームズのシリーズが分りやすい。ワトソンはあくまで客観的記録者であり、珍事件に関わる立場ではない。珍事件を解決するのは、ホームズである。つまり、ワトソンという常識的観察者と、ホームズと言う異常行動者の組み合わせだ。

 映画は三人称文学だ。小説のような特別な視点はない(主観カメラ、ナレーションという世界の外を示唆する文法は存在するが、全編ではないため、例外である)。
 カメラの前に、珍事件に関わる人々は平等だ。
 この事件に関わるすべての登場人物のうち、最も目立ち、最も派手な動きをし、最も事件の鍵を握り、最も重大な決断をし、最も内部に葛藤や闇や悩みを抱え、最も成長する者を、主人公という。
 映画における主人公は、常識者のときもあるし、異常者のときもある。好きになるかどうかはおいといて、必ずしも、好感を持てる常識的なヒーロー的人物が主人公である必要はない。映画は事件と解決を描くものである。そのおはなしに関わる登場人物劇団のなかで、最も興味深い人物が、主人公に「選ばれている」だけなのだ。
 主人公に「最初から感情移入出来るかどうか」は、重要ではない。事件の発生、解決の過程において、我々観客は、最も目立つ主人公の内面や事情を知っていくうえで、次第に主人公のことがわかってきて、肩入れするようになる。これが感情移入である。感情移入は目的ではなく、結果なのだ。(勿論、そのようにコントロールするように、作者は主人公の事情は詳しく描くが他の事情は省略する、同情すべき事情に主人公をおいこむ、などの意図的な工夫をすることが多い)

 「しゅららぼん」の珍事件の登場人物の中で、最も目立ち、最も派手な動きをし、最も事件の鍵を握り、最も重大な決断をし、最も内部に葛藤や闇や悩みを抱え、最も成長する者は誰か。淡十郎(濱田岳)または源じい(笹野高史)である。この二人に最もプロットが厚い。
淡十郎は力のある出自を持ち、速瀬沙月(大野いと)に惚れたのを棗(渡辺大)に奪われ、神水を飲まずに源じいに力を目覚めさせ、力を忌避し琵琶湖から出て行こうとする。決戦の際に、神水を源じいに力を与えることになったのは自分のせいだと力を受け入れる。「運命の子」がその運命を嫌い、自らの過ちを悔いて、その運命を受け入れる話だ。
一方源じいは八郎潟から琵琶湖に来るときに記憶を奪われた、悲しい過去を持っている。結婚の約束をした娘の記憶を、60年失い、今更どうしようもない。それは二つの家のせいである。その復讐のために、二つの家を破壊しようとする。
この最も厚いプロットを持った二人の人物で、真逆の目的を持つ対極的な人物を、三人称文学では、主人公と悪役(敵対者、アンタゴニスト)とよぶ。主人公が悪役を倒す理由は、正義であることが多い。最近の物語では、正義対悪の単純構造では面白くないので、悪役もそれなりに同情すべき事情を持っている。「正義の敵は悪ではなくもうひとつの正義」というやつだ。悪役は、それでも唯一、目的の遂行の過程で、人道的に悪い行動をしたことが責められるポイントとなることが多い。どこかで目的のために人を殺していたり、何かを破壊していたりすることで、「もうひとつの正義」を「悪」だと我々は断定するのである。これにより正義が存在意義をもち、反対サイドである主人公に、皆が肩入れする(感情移入する)、というのが大きな仕組みだ。

三人称文学は、誰からの視点でもない。最も目立つ、最も行動する人物に焦点を当てるだけである。その多少と、道義性で、感情移入する先をコントロールするのである。

さて、この脚本は、誰が主役であったか。涼介(岡田将生)である。この珍事件に何の関わりもない、珍事件の傍観者が主役なのだ。ここがこの脚本の構造的欠陥である。

この作品は小説原作であるから、書き手の「私」役が涼介であったことは想像に難くない。「涼介の目から見た」これは珍事件の記録であり、涼介はワトソン博士である。映画における主役とは、観察者や傍観者や行動の少ない人物でないことは、上の議論からあきらかだ。映画版のシャーロック・ホームズでは、どの作品においても、主役はホームズであり、ワトソン博士は脇役である(極端に、出ない映画もある)。
つまり、一人称の「主役」とは記録者(この場合涼介)であるが、三人称文学では、主役とは最も目立つ人物(淡十郎)なのである。この落差が、齟齬を生んでいる。

同じミスを犯した小説映画化作品に、「落下する夕方」がある。地味で目立たない女、原田知世が、エキセントリックな女菅野美穂に振り回される話だ。「地味で目立たない私が、何故か派手で能力もあるヒーローに気に入られ、その異世界に入ってゆく」というプロットは、一人称形式ではとても多い。それは、「楽して変わりたい、冒険したい」という人間の都合のいい願望のすくい取りだ。そして、このタイプの映画は必ず失敗する。派手な方が目立ち、地味な方はなんの活躍もしないからだ。映画的には、派手な方が主役だからだ。
似たような構造だが成功した映画には、「スタンドバイミー」がある。地味で小説家志望の主人公ゴーディーが、派手なクリス(リバー・フェニックス)と仲間と死体を見つけに行く旅をする話だ。ここでも物語のきっかけ、つまり死体探しの旅に、地味な主人公は誘われる、という形ではじまる。しかしこの映画のポイントは、ゴーディが「死んだ兄を乗り越えること」という大きな骨に基づいて構成されている点である。
この物語の第一ターニングポイントは、一見「旅に出る」ところかと思いきや、旅に出るのは15分すぎと、異常にはやい。真の第一ターニングポイントは、旅のはじめ、「雑貨屋で兄のことを問われた場面」である。「スターだった(死んだ)兄はアメフトをやってた。君は何をする?」と何気ない店主のひとことが突き刺さる。ここでこの物語のテーマが明らかになる。ゴーディのアイデンティティである。ゴーディのアイデンティティを探す旅(スターだった兄の死をのりこえること、目立たない自分が何者であればよいか答えを見つけること)こそが、この物語の真の骨子なのだ。派手なクリスとの重要な場面はふたつある。ロリポップを歌いながら、「お前は進学クラスにいって小説家になれ」と言われる場面と、キャンプファイヤーのあと、給食費が盗まれたのを、本当は先生なのに、先生に貧乏と言うだけで犯人にされたことを告白する場面だ。「自分を誰も知らない土地へいき、本当の自分でありたい」とクリスは言う。そのふたつの場面に挟まれる、最重要のポイントが、キャンプファイヤーで「面白い話」(パイの大食い大会)をゴーディが話す場面だ。クリスはゴーディの作り話の才能を認めている。一見何でも一番のクリスは、ゴーディが一番うらやましいのである。クライマックス、事件を解決するのはクリスではない。「死体」を目の前にし、死というものを認識したあと、銃をチンピラにつきつけて退散させるのは、勇気を出したゴーディだ。全てがゴーディのこの行動に重なるように、物語が組まれているのである。


「しゅららぼん」は、涼介を主役にしながら、珍事件の主役は淡十郎だった。その齟齬が、構造的なつまらなさを招いている。

面白くするためには、ふたつの方法がある。
涼介主役で書きなおすか、淡十郎主役で書きなおすかだ。
淡十郎に濱田岳を当てているところから察せられるとおり、淡十郎主役の線は薄いだろう。となると、淡十郎以上の活躍、動きを、涼介がしなければいけない、ということになる。これは厄介だ。原作の珍事件の構造を、相当いじる必要があるからだ。

脚本打ち合わせでこの問題が分析できていただろうか。
出来ていなければ、それは脚本というものについて、無知なメンバーだったということだ。無知がいくら唸っても、この見識に数カ月でたどり着く保証ない。事実、たどり着いていない。たどり着いたとしても、原作レイプと言われかねない改変を施す、勇気が必要である。この場合の勇気とは、「原作と全然違う」と原作ファンからそしりを受ける覚悟と、「原作の映画化なのに全然違う脚本だ」と言う製作委員会を説得する勇気である。そうまでしてなお「面白い」脚本をあげるには、相当の力量が必要だ。しかもコメディータッチをきちんと忍ばせながら、だ。


以下、雑感を記録しておく。
第一幕の30分がとても退屈だ。人物紹介だけで終わっている。その割に爆笑ポイントが少なすぎる(ニヤニヤポイントでもいい)。「シュールな世界観」というほどでもなく、ぬるい感じを受けた。何も事件が起こらないからか。棗との初日の一件、美術部入部の次の、棗対淡十郎の対決へと話が進むのが常識である。
第一ターニングポイントがない。30分に何が起こったかというと、暗転→HSで音楽(スタンハンセンを吹く)、という幕間であった。三幕構成上の第一ターニングポイントではなく、とりあえず人物紹介の30分が終わったので、次いきます、という場面であった。これがだらだらに拍車をかける。それ以前に事件がおこり、それに対する主人公のリアクションであるべき第一ターニングポイントがないから、校長(村上弘明)が事件を起こすまで、この話に展開というものがない。だからゆるい。

結局、この話は校長が攻めてくる(おそらくミッドポイント付近、時計を見ていないのだが45分から55分あたりだろう)まで、何も起こっていない。このあとはお話のフォーマットになっているが、それまではキャラ紹介で終わっている。二時間の映画で事件が起きるのは、ハリウッド映画では8分である。映画全体を貫く大事件が起こるのは25分だ。「校長が攻めてくる」を25分にしたとき、何が起こるかを考えてみるとよい。人物が紹介しきれないこと(そのあとの話が両家の力を前提にしたものだから)という理由がもっともらしい。つまり、「校長の攻撃→48時間以内にこの街を出る」という事件そのものが、話全体で焦点を合わせる事件ではないのだ。とすれば、この事件は75分、ボトムポイントで起こせばよいことになる。90分付近の第二ターニングポイントは、地下の神水をゲットする、この映画の中でもハイライトの場面になるだろう。
余った前半戦に何をやるべきか。「昔から緊張状態にあった両家の争いに、涼介という新しいファクターが加わったことで、バランスが微妙に変わっていくこと」だと思う。ナイフを投げたあの場面、「涼介が何かをしたこと」で涼介が主役にならなければならない。その後、緊張状態が「あのお供」のせいで動いてゆくのだ。その結果、両家の当主ごと担ぎ出すような大喧嘩になり、仲裁役を校長が買って出る。当の涼介は、同時進行で力に目覚めていく修行をして、「力」合戦に参加していけばよい。

主人公には、その一番心の真ん中に、真の動機があるものだ。この映画でいえば「友達ができますように」というカワラケがその象徴である。これが、物語中で生きていない。友達?いるじゃないか俺達が、という風にラストが帰結していない。そのラストこそ、この映画のテーマになる筈である。棗の術発動によって忘れる筈の俺達がなぜそれを覚えているのか、なぜ棗は転校して来たのか、曖昧でぼかしては意味がない。ぼかしている理由は明らかだ。テーマと関係なくなってしまったからである。


物語とは、テーマが背骨である。すべてのエピソード、決断、展開はテーマから発し、すべてはテーマに帰結するのが美しい構造だ。この映画のテーマは、何だっただろうか。涼介の真の思い「友達がほしい」ではないようだ。運命を自分で変えること? 力を否定しながら、その力を受け入れること? 仮に淡十郎を主人公にしたとしても、彼の持つテーマ性は「よくあるタイプの物語」でしかなく、現代の観客にとって感情移入に足るものすごく面白い話には、残念ながらならないだろう。その残尿感が、この映画が腑に落ちない理由だと思う。結局、この映画は話は微妙だが、岡田ファンが食いつくアイドル映画のレベルにしかならなかった、ということだ。

 個々のディテールはよく出来ている。しかしその個々は、前後数分の範囲でしかない。CMディレクターのつくる映画は、「全体としてよく出来ている」ものが、ほんとに少ない。個々は全体のためにある。デッサンの狂った絵は、完成ではない。
posted by おおおかとしひこ at 19:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック