映画とは離れるが、シリーズ構成について書いてみる。
シリーズ構成とは、連続ドラマ
(1クール、2クール、4クール)の全体の構成を決めることだ。
各話ごとの細かい話ではなく、
どういう話がどのあたりにあるかという、
一番外の骨組みを決めることを言う。
一話完結ものでも、連続ものでも、
シリーズ構成の役割は同じである。
各話で細かく行われるエピソードや焦点ではなく、
シリーズ全体で行われる焦点を決める。
大きな焦点と小さな焦点は、
ときに一致することもあるし、大を忘れて小に集中することもあるし、
逆もあるし、同時進行することもある。
何もこれはシリーズ構成特有の現象ではなく、
脚本では常にあることだ。
試合に勝つために筋トレをする、なら前者が大きな焦点、後者が小さな焦点だ。
シリーズ構成とは、つまり、大きな焦点を構成することだ。
構成という点では、なんら脚本の構成と変わらない。
まず、センタークエスチョンを決める。
シリーズ全体を通じて達成する劇中の目標である。
敵を倒す、愛の成就、真犯人を見つける、謎を解明する、
などのパターンが多いだろう。
そして、全体を三幕構成にする。
発端、展開、解決だ。
多くのドラマシリーズでは、
1、2話あたりが全体の一幕、
最終回(とその付近)が三幕になる。
間の各話は全て二幕だ。
一幕は全体の設定、二幕はその展開、三幕はその解決、
であることも、映画と全く同じである。
ペース配分が違うだけだと思ってよい。
当然、
第一ターニングポイントが一幕の終わりにあり、
第二ターニングポイントが二幕の終わりにある。
2話までが一幕だとすれば、
2話の終わりにセンタークエスチョンの提示がある。
これを解決するのが本作品の劇中の目的である、
というものが。
最終回が三幕だとすれば、
最終回一歩手前の終わりに、
いよいよセンタークエスチョンの本題にあと一歩まで迫る。
そして観客に思わせるのだ。
果たして、○○は解決するのだろうか?と。
(風魔を例に取れば、1、2話が一幕、12、13話の前後編が三幕だ。
センタークエスチョンは夜叉一族の壊滅である。
これは1話で依頼されるが、武蔵が赤星の矢を放ったことで事態が複雑化する。
夜叉一族と風魔一族の全面戦争だ。これが二幕の内容だ。
第一ターニングポイントは、風魔一族の集結である。
第二ターニングポイントは、決戦兵器風林火山の完成だ)
テーマも同時に考える。
以前に書いた通り、一幕と三幕があればテーマはつくれる。
使用前→使用後のように、物語という旅を終えた主人公の、
物語前後の姿を見比べればよい。
主人公の成長、はよくあるテーマだが、
それだけではテーマにならない。
どういう成長をしたのか、という所がテーマになる。
(風魔では、新しい形の忍びになること=心に暖かい風を吹かせること)
これらを踏まえ、各話のエピソードを組んでいく。
二幕の内容が肝になる。
最も長いパートであり、
色々な話を盛り込めるところだ。
各人物を深堀りしたり、脱線することだってありえる。
映画でいうところの、サブプロットを沢山描くことが可能である。
沢山の登場人物やエピソードが、花開くところである。
1、2話は紹介みたいなもので、
3話以降が本格的な展開、という我々視聴者の直感(経験則)は、
二幕がお楽しみポイントになっている、という意味である。
二幕で起こることは、「これがどのようなドラマか?」に答える内容だ。
敵を倒すドラマなら、敵と味方の攻防や第三者が絡むドラマだろう。
愛を成就するドラマなら、仲良くなったりケンカしたり、ライバルのドラマだろう。
真犯人を見つけるドラマなら、手がかりが見つかったり、ミスリードされたり、頭脳戦や体力戦があるだろう。
謎を解明するドラマなら、解明しかかったときにまた新たな謎が現れたり、どんでん返しドラマがあるだろう。
これらのディテールを面白おかしく描くために、
第○話で、何が起こるかを大体決めていくのだ。
テーマに関する話も時折あるだろうし、
それらはバラバラではなく関連の糸として存在する筈だ。
(風魔では、3話で忍の掟という枷、4話で勝手な行動、
5、6話で仲間の死に立ち会う、7話で守るべき人達との関係について、
小次郎は体験して行く。これによって、今までの忍び、小次郎なりの忍びについて、
小次郎の中で話が繋がって行くのだ)
勿論、同時進行で、
各話を完結した面白い話にするために、
その各話での事件、展開、解決を考えなければならない。
マトリョーシカのような入れ子構造だが、
我々書き手からすれば、
同時進行する両義性、大きな焦点と小さな焦点を同時に扱っている感覚だ。
各話の大まかな話が出来たら、
それらを並べて、
入れ換えたり、一緒の話にしたり、別の話にしたりなどの、
全体のバランスを整える。
映画の脚本を書くときに、ボードを使うことと何らかわりない。
全体の三幕構造や、各話のテンポ感を考えて、
全話の配置をする。
マクロ的に考えれば、映画の構成をすることと、
なんら変わりない作業だ。
各エピソードが、シーンやシークエンス単位ではなく、
各話単位という大きさが違うだけである。
最近のドラマが面白くない最大の理由は、
シリーズ構成を殆どしていないことだ。
本来、シリーズ構成は、各話の執筆前にする。
各話を全部書き終えて、なおかつシリーズ構成を練り直すときもある。
映画のリライトと同じである。
より面白く、よりテンポよく、より楽しめるように、
全体を練る。
ターニングポイントの置き所や大きな焦点の行方を考える。
そうすることで、テーマがより際立ってくる。
最近のドラマは、全部書く前から撮影をはじめてしまう。
スケジュールがないこと、視聴率次第で内容を変更することが前提だからだ。
そんなもん、面白いわけないだろう。
三幕構成もセンタークエスチョンも、テーマもサブプロットも、
あったものではない。
全体を鑑みたリライトをしてないということは、
各話の全体への寄与が、計算配分されていないということだ。
脚本家と監督とタレントは押さえたら、
あとは撮って出しでよろしく、とプロデューサーが言っているのだ。
毎回毎回面白く、回を追うごとに面白くなってゆき、
毎回発見や驚きがあり、全ての回がテーマのもとに配置されている、
濃厚で面白いドラマは、そのやり方ではつくれない。
(つくっているのは、NHKだけだろう。だからNHKドラマには一定のクオリティがある)
濃厚で面白い海外ドラマは、勿論この手間をきちんとかけている。
オンエアの一年前から脚本を練っているのは当たり前だ。
日本の今のドラマは、三ヶ月前からしかはじめない。
それは主演を抑えることが第一だからだ。
主演を押さえたら、何をする?からはじめる。
そんなやり方では、作品ありきのものなんてつくれる訳がない。
(風魔の場合、結果的に撮って出しのスケジュールになったが、
最初にシリーズ構成をきちんとつくり、各人物のアークが、
原作通りになることも含め、相当綿密なものがあった。
その計画を墨守したことが、脚本的成功の理由だ。
全話見終わったあとに訪れる、終わった感、満足感は、
決して原作やアニメにはないものだ。
これはシリーズ構成がきちんと機能し、
13話を大きな映画としてつくっていることの証拠である)
もしあなたが、映画脚本以上の分量を書くことがあるとしても、
(連続ドラマ、長編小説など)
恐れずにシリーズ構成をすればよい。
それは映画脚本の構成と何らかわりないものである。
逆に、これをやってみると、映画の構成について詳しくなることができる。
2014年03月30日
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