2014年04月03日

漫画原作のドラマは絶滅するか

ツイッターでちょこちょこ話題になっているようなので、
食いついてみる。
漫画原作のドラマ化の最も問題点は、
ドラマの内容が原作の面白さに比べて、へぼいことだ。
そして内容のへぼさに、製作委員会的な人達が、
なんら反省していないところだ。
その内容のへぼさが、脚本であることに、
反省していないところだ。


風魔をドラマ化した張本人は誰か。
それは僕ではなく、
風魔をイケメンドラマにしたてあげ、
腐女子向けコンテンツとして、
ドラマ化→キャラソン、舞台化→グッズ販売
というビジネスプランを敷いた人々、
すなわち製作委員会である。
東宝(映像化事業部)、ソニー(音楽の版権をもつ)、コスパ(衣装やグッズの版権をもつ)
という複合産業なのである。
それらが、
実製作部隊である、GEというプロダクションに、
一話1000万の金と、メイキング予算を渡す。

プロダクションには、プロデューサーがいる。
プロデューサーは、子飼いの脚本家に相談し、
形が整ったら、はじめて監督を入れるのだ。

僕がプロジェクトに入ったときは、相談があるんだけど、
という持ちかけだ。
そこまでのビジネスプランが既に出来ている。
が、脚本がいまいち面白くないと言ってみせられる。
たしかにイマイチだ。
原作の本質をはずし、原作ファンである僕には納得し難い内容だ。
そこで、ちょっと考えさせてくれ、
と言って、シリーズ構成と第一話の脚本を書いたのだ。


ドラマの内容を決めるのは誰か。
脚本と監督である。
ドラマの大枠を決めるのは誰か。
製作委員会とプロデューサーである。

後者が先にきまり、前者はあとできまる。
ドラマの内容があって、はじめてお金を集めるのではない。
このような感じに使う金が先にあり、
あとはそのプラン通りの脚本を合わせるのだ。


プランがヌルイ場合、
あとから入った脚本家や監督は、
ヌルイものを組み立て直すか、
もう決まっているから変えられない、
という理由で、そのまま我慢してつくるか、降板するかしか選択肢がない。
(そして、あいつは降りた、と悪口を流される)

志と実力のある監督は、
一から作り直す。その労力はたいへんなものだ。
一度構築された世界を、構築する以前にまで解体し、
その構築意図を保ったまま、別の構築にし、
両者は同じ魂を持った別物である、
というところまで昇華しなければならない。
それは、脚本の台詞、人物像、動機、シーンの順番などの、
見た目が、原作と異なることも有り得ることだ。

だから、製作委員会は、
「思っていたのと違う」と言い出す。
漫画と同じようにするんじゃなかったのか、と。
それを、脚本理論で説明しても、
そこまで脚本と内容の関係を理解してはいないし、
目利きでもない。
(金の投資先を探している、ビジネス複合体でしかない。
自分のビジネスを左右する筈の、脚本の目利きが出来るのが理想だが、
出来る製作委員会に会ったことがない。
ありていにいえば、彼らはスタッフではなく、
金を持っているスポンサーだ)
プロデューサーが、間に立って、監督の言葉とビジネスプランの同時通訳者になる。

風魔は、そのプロデューサーが優秀だったのだろう。
僕に声をかけ、僕のいう言葉を理解し、
僕のつくるものを最大限実現しようと努力してくれたのだから。

製作委員会、プロデューサー、脚本家監督は、
そのような、組み合わせの妙で決まる。


これが、アホプロデューサーだった場合、
志のある脚本家や監督は、仕事を断る。
(日本人は断ると嫌がるので、たいてい忙しいスケジュールを言い訳にする)
大抵、原作と違うヌルイ改変を、ドラマに求めてくる。
それは違うと監督が主張しても、もうこう決まってるから、
こうしてくれ、としか進められない。
じゃあその決める場に呼んでくれよ、俺が直接説得する、
と監督が息巻いても、ダメなプロデューサーほど、
喧嘩の場を避けたがり、決して製作委員会に会えることはない。
志のない、実力のない監督が、
ダメな脚本をそこそこに映像化し、
かくして、漫画原作のドラマは、ダメ作品が量産される。


問題はどこにあるか。
漫画がそのままドラマにならないことぐらい、
素人にはわかる。
それが、どれくらいの精度で、
漫画とドラマの違いを知っているかである。
漫画、ドラマ、双方のオタクにでもならない限り、
その違いを体感で知ることは難しい。
オタクでなければ、このブログで書いている量の脚本理論を持っている人である。
残念ながら、そんな人は希である。


オリジナル脚本が何故実現しないかというと、
製作委員会が、脚本が読めないからだ。
この脚本で当たるのかね、と言い出すからだ。
だからプロデューサーは、
人気俳優たちを集めることで担保しようとするのだ。
人気俳優を集める力のないプロデューサーが、
人気原作をさがしてくる。
小説を読む力は、脚本を読む力と同じくらいの読解力を必要とするから、
小説原作より、分かりやすい漫画原作を持ってくる。
この漫画をドラマ化しましょう。
受けてます。ビジュアルも読めるし。

そう言われ漫画を受け取り、読んだ人が、
金を集め、投資の回収に興味をもつ。
さあ、この人達が、
どのくらい、
何故この漫画が、今、どうして、どのへんが、
受けているかについて、的確な分析が出来るだろうか。
どこを抽出して残し、
どこがドラマにしては不足し、
どこを省略すべきか、
的確な分析が出来るだろうか。
否である。
だから、脚本家や監督を、
プロデューサーが連れてくるのである。


このループを何年もやるとどうなるか。
プロデューサーが、
一からオリジナルの企画を立てる力が急速に落ちるのだ。
今受けることは何か、今どんなテーマをいうべきか、
今どんな題材がいいか、という目利きをすることなく、
今売れている漫画は何で、
どれなら金がかからなそうか、
というチェック係が、主な仕事になってしまう。
(事実、GEには文芸部と言って、日がな一日漫画と小説を読み続ける部署があった。
この人達が面白い、と言った漫画を、映像化権を取りに行く、
というのがプロデューサーの仕事であった)


漫画原作のドラマ化は、ドラマ脚本をだめにする。
その主張には、そんな裏の人間関係がある。

ドラマの企画は、元々プロデューサーが立てる。
今こんな新鮮な題材があり、
それをこういうドラマにすれば面白いのでは、
とどこかで閃き、
才能溢れる監督や脚本家と議論してつくっていく。
形になってきたら、それをビジネスにするために、
製作委員会をつくる。
そのループがプロデューサーの人生だ。

新しさとは何か、面白さとは何か、
議論したり考えることは、
大変難しく、頭を使い、喧嘩もすることだ。
これが、漫画原作を探すこと、になってしまうと、
それらを避けられる。

せっかく漫画原作のドラマで、それを避けたのに、
それじゃダメだ、全面的に脚本から考え直さないとダメだろ、
と言ってくる脚本家と、
議論をしたくないのは、当然だ。

だから、漫画原作のドラマ化は結果的に脚本家をだめにする。
俺が引いたビジネスプランどおりの脚本だけ書いてればいいんだよ、
金は出るんだから、受けなかったら監督のせいだから、
その監督を二度と呼ばなきゃいいんだよ、
と思うプロデューサーばかりになるのは、
当然である。


良心的に、作品を作り続けるプロデューサーも、
世の中には沢山いるだろう。
しかし、悪い、作品を議論する能力のないプロデューサーが増えているのも現実だ。

僕は、風魔を、ちゃんとつくりたかった。
金はないけど、ないなりに、ちゃんとつくりたかった。
その志を、プロデューサーは大事にしてくれたからこそ、
製作委員会の意向に体して、ある程度僕の意見を尊重してくれたのだ。
(キャストに関しては全面的に僕の意見、
衣装デザインに関しても、コスパの出してきたデザインを僕が却下し、
僕が自ら布見本を探したことは監督メモでも書いた)

漫画原作のドラマは、ドラマをダメにする。
それは、怠惰が横行し、淘汰されないからだ。


僕は風魔の出来に胸を張って自信を持てるが、
それは、知られていない。
怠惰な人たちのつくるダメドラマが横行していて、
それが残念ながら、視聴者にもスタンダードだと思われている。
(それはCM業界でも似たようなことだ、とペプシの議論でもした)


漫画原作のドラマ化は、恐らくなくならない。
その動機が、「漫画原作の持つ面白さを、ドラマでも楽しみたい。新たな層にも広めたい」
ではなく、
「これらのスポンサー(最近は芸能事務所も含む)が満足するような枠を維持するため、
既にある世界を利用する」
である限り。
posted by おおおかとしひこ at 15:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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