2014年04月07日

デジタルは人を幸せにしない:点と線

デジタルのよくないところ。
点で終わってしまい、線でものごとをとらえなくなること。

辞書を引くことにたとえられるけど、
単語を引いてそれでおしまいになること。
本当の勉強は、その言葉の語源や発生や、類語まで、
まるごと学習することだ。
何故なら、ことばと概念は一対一の対応ではなく、
曖昧な範囲を持つゾーンやネットワークとして存在するからだ。

ネットがそれらを効率よくつなぐかと思われたが、
逆に点で終わらせてしまう病に、おちいっているような気がする。


僕は東京に出て来て18年になるが、
車も乗らないので、いまだに道を把握していない。
電車移動がほとんどだから、乗換えや駅からの地理は頭に入っている。

自転車移動や車に普段乗る人の、東京の地図とは、
随分違った東京のマップが僕の頭の中で出来上がっている。

たとえば、恵比寿のAスタジオから、渋谷のBスタジオへ移動するとしよう。
僕はAスタジオ→恵比寿駅→渋谷駅→Bスタジオと移動する筈だ。
もしAスタジオとBスタジオが、歩いていける距離にあったとしても、
道を知らなければ、恵比寿駅と渋谷駅という二点ベースでしか、
ふたつのスタジオを把握していない。
これは、道を知らないということである。
道を知っている人からすれば、ただワンブロック○○沿いにいけばすむことを、
僕は知らないがゆえに、点で移動するのである。

知識も、これと同じような構造を持っている。
すべての知識は関連し、少しずつ重なり合う。
あることを調べたら、あることが芋づる式に出て来て、
それらを大体分っていないと、そのことに詳しいとは言えない。

知識とは、丸暗記のように、100あることをひとつずつ覚えていくことではない。
その連関をも含めた有機体が知識である。

文学、歴史、法律、心理学、哲学などの文系学問も、
化学、物理、数学、医学、工学などの理系学問も、
人生の生き方などの生きる知識も、
すべて同じ構造である。


映画に関する知識に限定すると、
○○監督の△△が好きだ、という話のときに、
じゃあ同監督の□□は見たか、という発展に対して、
それは知らない、という風に、点で終わってしまうのだ。
○○監督という線で映画をとらえるなら、
当然抑えなければいけない流れがあるはずなのだが、
それを見ずして語っても、無知や浅い判断をさらすだけである。
(メジャーな例なら、宮崎駿を語るなら、
カリオストロやナウシカやラピュタを見ていない、
最近の若い者はどうかと思う。ハウルやポニョなんて、後期宮崎だ。
もっといえばパンダ子パンダやコナンを知らずに宮崎は語れないだろう。
もっといえば、当時のアニメの平均の中で、
いかに宮崎が突出した存在であったかを語るには、
当時の平均的アニメの質をもって議論すべきである、などなど)


検索は非常に便利になったが、
点を把握して、それでおしまいということが多くなった。
近くによく知った点があり、
それらは一連の線でつながっているのだ、という理解がしにくくなった。
恵比寿駅からしかいけないAスタジオと、渋谷駅からいけないBスタジオが、
実はワンブロックしか離れていない、近接関係があることは、
点の検索からは一生たどり着けないだろう。

あまたある点に、線の関係をつくることが知識だともいえる。

デジタルは人を幸せにしない。
知識の構造を、安易な方向にしている。
もっとも、知識に詳しい人なら、それを分った上で利用する。
しかし、デジタルの点の知識が重要なこと、
と習ってしまった若い世代は、ちょっと危険な気がする。
(身近で極端な例でいえば、
「必殺技名を叫ぶのは車田正美が元祖だ」という発言をネットで見てひっくり返った。
いやいやいや。そんなもの、同時代でも前時代にもいくらでもあるわ
しかし、リアルタイムでその時代のマンガもアニメも特撮も見ずに、
リングにかけろだけを見ると、そう思ってしまうのかも知れない)

ずっと天狗のことを調べていて、
wikiからたどれる膨大なリンクを読んでいる。
そこで得た知識を整理しようと思ったら、本一冊ぐらいは書けそうな気がしてきた。
点は点でしかない。
それを線で結ぶことが知識であり、独自の見方であり、
真実に近づく方法である。


ちなみに、ペプシ桃太郎の検索で、あらすじを書いた記事に、
今一日300から500人ペースで来ている。
その人達は他も読むのかと思いきや、殆どは一回の滞在くさい。
あの記事だけ読んでも、ふーんでしかないと思ったので、
件の記事に追記し、議論の流れで出て来たことだとリンクを張ってみた。
さて、アクセスはそこにも届くか、それとも点で終わり線へ発展しないか、
それは検索能力だけでなく、知的能力に関係するかも知れない。

点の孤立は、知識を豊かにしただろうか。
かつてのCDアルバムは、曲順が作品だった。
個別で曲を買うようになって、その配列に意味が薄くなってしまった。
デジタルは、ここでも人の幸せを奪っている気がする。
posted by おおおかとしひこ at 16:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック