不条理ものについて色々と考えていると、
結局は「ゴドーを待ちながら」にいきつくので、
戯曲(白水ブックス版/安堂信也、高橋康也訳)を読んでみた。
注釈を無視して、台詞の進むスピードでよんだほうが、
不条理感がよくわかる。
僕にとっての不条理のはじまりは、
吉田戦車「染るんです。」である。
吉田は、日常風景を異化してみせ、
我々の「日常認識」を根底から覆してみせた。
今見てもその感覚を味わえるネタもあるし、
それほどでもないネタもある。それは時代を経たということでもある。
ゴドーにおける不条理とは、
「話が進むのかと思いきや、進まない」にあると思う。
台詞劇の進行が、一見伝統的にはよく書けているのだが、
その会話は数分くらいしかもたず、
そのはじまりははじまらず、次の会話にいってしまう。
忘れた頃、その会話をむしかえす。
(そういえば我々はゴドーを待っているんだった、は最もむしかえされる)
で、困ったら、新キャラを出す。
いじりあきたら、舞台の木をいじり、空をいじり、
舞台転換をして、時間経過すらいじる。
いじる、というのはお笑いの用語で、
話題にして、時に面白おかしく、時に深く掘って行く、
という意味のことばだ。
いじりあきたら、次の興味へいくだけだ。
不条理、というのは、
いじるだけで、話が全くすすまない、
認知症患者の話のようになっていることをいう。
言葉は理性的で、注によれば下ネタとのすれすれのニュアンスも含み、
会話のかみあわなさも含め、これはシュール漫才とみるのが正しい。
(実際、悲喜劇と題されていたようだ。
今の時代の日本の我々には笑えないが、フランス語では笑えるかも知れない)
シュール、というのは、一種のかみあわなさ、
異物の唐突さを言うと思う。
何かに似ていると思ったら、
石井克人の短編、「世にも奇妙な物語」枠でつくられた、
「Black room」だ。
かの作品では、黒いだけのシュール家とシュールな父母に、
キムタクが振り回されていた。
我々の視点がキムタクにあり、ツッコミ役として存在していた
(何で?とか、は?とか、何?などの台詞ばかり)のだが、
ゴドーにおいては、ツッコミ役が存在しない、
いわば不親切なシュール劇なのだ。
ゴドーなる人物を待っている体で話は経過する
(進展ではなく、ただ経過する)が、
これは容易に想像できるとおり、
神に会う死の時を待つ、我々人間の比喩である。
死の時まで、我々は何一つなしえることや、
分かった!ということもなく、時間を潰して遊んでいるだけだ、
ということの比喩でもある。
が、この比喩が目的とは思えない。
そういうことにしておけば、
マクガフィンとして機能する(=話のネタになる)からである。
これらの不条理は、既に1953年、60年前に書かれ、上演された。
たとえばダウンタウンやラーメンズのコントに先駆けて。
不条理とはなにか。
条理でないことだ。
我々は条理の側で台本を書いている。
不条理を見ることは、条理とはなにかを考えることだ。
条理とは、
話が進む。進むなあと思ったら、展開する。
話は元に戻ってこない。前の伏線を使うときは、話が進み、展開に寄与するとき。
話はとっちらからず、整然と進む。
困ったら登場人物を増やしたり、間でごまかすことをしない。
すべての要素は、わかった、腑に落ちた感じがして終わる。
つまり、話が意味をなす。
話とは、何かをなしえることで、時間潰しではない。
宗教に逃げて権威づけない。自力でテーマをみつける。
のようなことである。
まあ、いつも僕が書いていることだ。
逆に、それを書く実力のない者が、シュールに逃げることも、
僕はよく指摘している。
今の時代、シュールを書く者は、実力不足の者が多い。
異物を出して日常を破壊する冒頭部は書けても、
なんでそれが?に答える続きが書けず、
やむなくまた別の異物を出して目先をごまかして、
結局それが何だったのかの条理(なるほどそうだったのか!という落ち)を描けず、
シュール落ちにすることで、何かを描いた気になっている。
エヴァがその典型だ。
つまり、条理とは、落ちのことだ。
前ふりと展開に対する、落ちのことなのだ。
鮮やかな落ちが思いつかないから、シュールに逃げるのだ。
それは、最初から落ちを考えていないからだ。
思いつきで、へんてこな冒頭を書きはじめて、
困ったので横にそれることで目先をごまかして、
とっちらかって、全てを含む落ちを思いつけず、
シュール落ちに逃げているのだ。
落ちありきで逆算し、最初から計算して展開をつくっていないからだ。
つくるより壊すほうが簡単なのは、
物理的なものばかりではなく、物語や理屈もである。
不条理が面白いのは、条理(日常感覚や常識)が、
壊されるからである。
ダウンタウンの初期ネタの、クイズ番組漫才
(さて、どうでしょう?という問題とか)は、
クイズ番組、という一種の常識を壊した面白さだった。
ラーメンズのコントは、もっと高度な組み合わせだ。
ゴドーも、当時の常識的な演劇、伝統的な喜劇や悲劇の、
常識的な前提があるから面白かったのだろう。
不条理とは、一段頭がいい玄人むけだともいえる。
パターンや王道を、メタ的に批判するからである。
しかし、それは、小人(しょうじん)の頭のよさである、
と敢えて批判する。
大人(たいじん)は、新たな条理を構築するのである。
オリジナル企画を出せる、頭のよい人が、
脚本家の層には薄いと思う。
今なら、新しい条理を構築するチャンスだ。
つまり、ゴドーなんて過去の試行錯誤でしかない。
もう書くべきことなんてない、などとインテリぶらず、
真のインテリになるチャンスだ。
(原題は、En attendant Godot、つまりゴドーの出現、
またはゴドーが来るまでに、である。
待ちながら、という訳は、内容にあまり適切でない気がするのは、
映画邦題が、内容に適切かどうかより客を呼びそうなタイトルをつけるのと同じだ)
2014年04月13日
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