2014年04月13日

ネット時代の表現は、より評論家能力が必要だ

今の時代、何か発表すれば、
すぐネットで叩かれる。モンスタークレーマーもいる。
電話一本でCMを自粛し、ドラマからスポンサーが撤退する。
この事態は異常だ。
気にくわないCMを止める方法は、
顧客のふりをして、難癖つけて人権団体を動かせばよいからだ。
電話一本(または数本)でよいからだ。

表現は、そんな脆弱なものではない。


中止する理由は簡単だ。
クレームがあったから、だ。
クレームがあれば何でも中止するのか。

あなたは誰かにプロポーズした。
クレームを受けて、中止する。
それと同じだ。


表現には、
表現意図があり、
表現方法がある。
その両方の工夫と組み合わせが表現である。

表現が素晴らしいのは、
表現意図と表現方法が、素晴らしく噛み合ったときだ。


クレームは、どこにつけることもできる。
何ならなんにでも、どうにでもつけることが可能だ。
その能力の優秀な人が、たとえば海外では弁護士になる。
何なら、サクラを何人か雇って、
クレームをつけ続けることは可能だ。

その逆は、最近の映画のヤフーレビューで有名だ。
クソ映画なのに、テレビ局の金のかかった映画では、
何故か絶賛コメントが上がり、点数をあげる人達が増える。
そのハンドルネームでレビューをたどると、
その映画しかレビューしていない、
という事がサクラかどうかを見極める方法なのだが、
それを知らない人は、その映画が評判がいい、と勘違いしてしまう。
(たとえ詰まらなくても、自分の目がないのだ、
と自分を責める)
ステマが情報弱者を操作するのだ。
憎むべきは情弱ではなく、ステマだ。

業界で有名な、○○の人(伏せ字は東京近郊の地名)というのがいる。
この人は、CMで自分の家の付近がうつるたびに、
猛クレームを入れることで有名になった。
法を守れば、本来撮影に問題はない。
ところがあるCMで、犬にリードをつけていない場面を描いた。
その海岸では、リードが義務づけられていたのを、
スタッフが知らなかったのだ。
(海岸線を、紐なしで犬と走りたい気持ちは、誰でも持つだろう)
猛クレームへの対応も下手だったのだろう。
その人は訴訟を起こした。
訴訟という傷物になったそのCMは、当然オンエア中止だ。
以来その人は味をしめたのか、
テレビで○○がうつる度に訴訟を繰り返している。
業界では、いまだに○○での撮影は自粛という名の禁止だ。


問題はどこにあるのか。
クレームや訴訟で傷物になった、
という考え方である。
物言いは必ずつくということを、
表現する側が知らない、その無知が問題である。

この場合は、海岸線を走らせた監督ではなく、
それを止めなかったスタッフに問題があると思う人達や、
それをOKしたスポンサーだ、と責任問題に発展させる、
その体制そのものだ。

責任を問われるからびびるのだ。
プロポーズに物言いがつくからといって、
一生プロポーズしないのと同じだ。


表現は、必ず誤解される。
表現は、全ての人に等しく届かない。
届くなら国語のテストは全員満点だろう。
表現は、ある人には心地よく、ある人には不快だ。
全ての人に等しく届く、全ての人に快な表現など、この世にはない。
神の言葉すら、キリスト教とイスラム教でいまだに戦争している。

つまり、表現は、それ自体リスクを抱えている。
それを知ることだ。

クレームは来る。訴訟は起こる。誤解はされる。不快に思われる。
その代わり、
称賛され、深く心に刺さり、快に思う人もいる。
(クレームのほうが称賛より、伝える意志が強い)

その前提で、表現をするだけだ。


問題は、それが出来上がったとき、
どう称賛され、どうクレームがつくものかを、
正確にとらえていないことだ。

評論家能力、というのはこのことをさす。

事前にクレームを予測できれば、
その因子をのぞくのは、リスクを避ける上では当然かも知れない。
しかしそれをすることで、称賛すべきポイントが、
削られることに気づかないなら、
評論家失格である。

ただ削れと指示し、同等の代替案を出さない者も、
表現の責任者として失格である。

中途半端な代替案しか出さない者も、失格である。
中途半端な表現だと自覚しない者も、評論家として失格である。

リスクを避けたことで、リターンが経るケースは、
まともな評論家がいない限り指摘出来ない。


電話一本で中止するのは、
表現の評論家が内部に誰もいないことの証拠だ。
表現のリスクとリターンを承知していない者の巣窟だ。
ちょっと文句がついたからと言って、
プロポーズを取り下げる者共だ。
そいつらには二種類いる。
そもそも本気でプロポーズするつもりがなかったか、
プロポーズがなにも考えていなかったかだ。


ネット時代、様々なクレームをつけることができる。
そこには本気の苦情や改善点を示すクレームもあれば、
潰すつもりでモンスタークレーマーを演じている場合もある。

その苦情は予測していた。
しかし前言を撤回することはしない。
何故なら、この表現内容をいうために、
この表現方法がベストだからである。
と、堂々と批評できる者、そのような集団が、
このクレーム時代に、ぶれない心をもって、
多少のクレームをはねのけて生き残るだろう。

それには、世に出す前に、考え尽くされていなければならない。
その表現内容がベストか。
その表現方法がベストか。
その組み合わせがベストか。

かつてのCMの企画は、それを数週間徹夜で考えた。
いまのCMの企画は、それに比べてあまりにも脆弱だ。
だから、無難が合言葉だ。
誰も文句をつけないものは、誰にも刺さらないものだ。
昔の道徳の教科書みたいなものだ。
ブナン・ザ・グレートだ。
ドラマも、どうやらそれっぽく、
映画も、その空気に犯されつつある。


骨太で、リターンの高いものには、
必ず誤解がついてくる。
人の心に切り込むことは、そういうことだ。
それを覚悟して、物書きたりたい。
posted by おおおかとしひこ at 18:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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