今の時代、何か発表すれば、
すぐネットで叩かれる。モンスタークレーマーもいる。
電話一本でCMを自粛し、ドラマからスポンサーが撤退する。
この事態は異常だ。
気にくわないCMを止める方法は、
顧客のふりをして、難癖つけて人権団体を動かせばよいからだ。
電話一本(または数本)でよいからだ。
表現は、そんな脆弱なものではない。
中止する理由は簡単だ。
クレームがあったから、だ。
クレームがあれば何でも中止するのか。
あなたは誰かにプロポーズした。
クレームを受けて、中止する。
それと同じだ。
表現には、
表現意図があり、
表現方法がある。
その両方の工夫と組み合わせが表現である。
表現が素晴らしいのは、
表現意図と表現方法が、素晴らしく噛み合ったときだ。
クレームは、どこにつけることもできる。
何ならなんにでも、どうにでもつけることが可能だ。
その能力の優秀な人が、たとえば海外では弁護士になる。
何なら、サクラを何人か雇って、
クレームをつけ続けることは可能だ。
その逆は、最近の映画のヤフーレビューで有名だ。
クソ映画なのに、テレビ局の金のかかった映画では、
何故か絶賛コメントが上がり、点数をあげる人達が増える。
そのハンドルネームでレビューをたどると、
その映画しかレビューしていない、
という事がサクラかどうかを見極める方法なのだが、
それを知らない人は、その映画が評判がいい、と勘違いしてしまう。
(たとえ詰まらなくても、自分の目がないのだ、
と自分を責める)
ステマが情報弱者を操作するのだ。
憎むべきは情弱ではなく、ステマだ。
業界で有名な、○○の人(伏せ字は東京近郊の地名)というのがいる。
この人は、CMで自分の家の付近がうつるたびに、
猛クレームを入れることで有名になった。
法を守れば、本来撮影に問題はない。
ところがあるCMで、犬にリードをつけていない場面を描いた。
その海岸では、リードが義務づけられていたのを、
スタッフが知らなかったのだ。
(海岸線を、紐なしで犬と走りたい気持ちは、誰でも持つだろう)
猛クレームへの対応も下手だったのだろう。
その人は訴訟を起こした。
訴訟という傷物になったそのCMは、当然オンエア中止だ。
以来その人は味をしめたのか、
テレビで○○がうつる度に訴訟を繰り返している。
業界では、いまだに○○での撮影は自粛という名の禁止だ。
問題はどこにあるのか。
クレームや訴訟で傷物になった、
という考え方である。
物言いは必ずつくということを、
表現する側が知らない、その無知が問題である。
この場合は、海岸線を走らせた監督ではなく、
それを止めなかったスタッフに問題があると思う人達や、
それをOKしたスポンサーだ、と責任問題に発展させる、
その体制そのものだ。
責任を問われるからびびるのだ。
プロポーズに物言いがつくからといって、
一生プロポーズしないのと同じだ。
表現は、必ず誤解される。
表現は、全ての人に等しく届かない。
届くなら国語のテストは全員満点だろう。
表現は、ある人には心地よく、ある人には不快だ。
全ての人に等しく届く、全ての人に快な表現など、この世にはない。
神の言葉すら、キリスト教とイスラム教でいまだに戦争している。
つまり、表現は、それ自体リスクを抱えている。
それを知ることだ。
クレームは来る。訴訟は起こる。誤解はされる。不快に思われる。
その代わり、
称賛され、深く心に刺さり、快に思う人もいる。
(クレームのほうが称賛より、伝える意志が強い)
その前提で、表現をするだけだ。
問題は、それが出来上がったとき、
どう称賛され、どうクレームがつくものかを、
正確にとらえていないことだ。
評論家能力、というのはこのことをさす。
事前にクレームを予測できれば、
その因子をのぞくのは、リスクを避ける上では当然かも知れない。
しかしそれをすることで、称賛すべきポイントが、
削られることに気づかないなら、
評論家失格である。
ただ削れと指示し、同等の代替案を出さない者も、
表現の責任者として失格である。
中途半端な代替案しか出さない者も、失格である。
中途半端な表現だと自覚しない者も、評論家として失格である。
リスクを避けたことで、リターンが経るケースは、
まともな評論家がいない限り指摘出来ない。
電話一本で中止するのは、
表現の評論家が内部に誰もいないことの証拠だ。
表現のリスクとリターンを承知していない者の巣窟だ。
ちょっと文句がついたからと言って、
プロポーズを取り下げる者共だ。
そいつらには二種類いる。
そもそも本気でプロポーズするつもりがなかったか、
プロポーズがなにも考えていなかったかだ。
ネット時代、様々なクレームをつけることができる。
そこには本気の苦情や改善点を示すクレームもあれば、
潰すつもりでモンスタークレーマーを演じている場合もある。
その苦情は予測していた。
しかし前言を撤回することはしない。
何故なら、この表現内容をいうために、
この表現方法がベストだからである。
と、堂々と批評できる者、そのような集団が、
このクレーム時代に、ぶれない心をもって、
多少のクレームをはねのけて生き残るだろう。
それには、世に出す前に、考え尽くされていなければならない。
その表現内容がベストか。
その表現方法がベストか。
その組み合わせがベストか。
かつてのCMの企画は、それを数週間徹夜で考えた。
いまのCMの企画は、それに比べてあまりにも脆弱だ。
だから、無難が合言葉だ。
誰も文句をつけないものは、誰にも刺さらないものだ。
昔の道徳の教科書みたいなものだ。
ブナン・ザ・グレートだ。
ドラマも、どうやらそれっぽく、
映画も、その空気に犯されつつある。
骨太で、リターンの高いものには、
必ず誤解がついてくる。
人の心に切り込むことは、そういうことだ。
それを覚悟して、物書きたりたい。
2014年04月13日
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