2014年04月15日

ビジュアルと中身は、5:5ではない

どこかの監督のインタビューで、
今回は最高のスタッフで、最高のビジュアルやデザインや世界観を用意できたんだ、
あとはストーリーだけだ、
というのを見て、アホかと思ったことがある。

ビジュアルというガワの魅力と、
ストーリーという中身の魅力をつくる労力は、
5:5ではない。
僕の経験上の数字を出すなら、
1:9ぐらいである。


ビジュアルというのは、
美術、照明、衣装、音楽、キャスティング、メイクアップ、
カラーセンスやデザインセンスで決まる。
これをつくる労力を1としたら、
中身をつくる労力は、1ではなく、9ぐらいである。

各専門スタッフの集合ワークであることをさっぴいても、
金が莫大にかかるとしても、
たった一人でつくる、
原価が紙とペンだけのもののほうが、
9倍手間がかかるのだ。


逆にいえば、
凄いビジュアルのものがあるとすると、
その9倍脚本に労力を傾けていなければ、
ガワの魅力に中身が勝てない、スカスカの映画になるということだ。


そのことを知らないアホな人は、
スタッフリストを見ながら、
それぞれが等分仕事をこなせば、
部品を組み合わせるように、映画が出来上がると勝手に思う。
美術、音楽、衣装、キャスト、脚本がそろえば、
出来ると思い込む。
だから、あとは脚本だ、とパーツを集めるような発想になるのだろう。

全く違う。
脚本の労力は、他の労力に比べ、圧倒的に大きい。
だって出力が、文字だけでいいんだぜ?
布を集めて縫製したり、
部屋や基地やロボットをつくったり、
照明を当てて雰囲気をつくったり、
芝居をしたり、演奏してミキシングするなどの、
物理的制作を、一切しなくていいんだぜ?
それだけ、出力とは関係のない、
中身だけで勝負するんだぜ?
なにも、誤魔化しが効かない。
見た目で誤魔化すことが出来ない世界なのだ。
(印刷のフォントぐらいだろう。凝るのは)
なんだったら手書きですら構わない。内容が勝負なんだもの。
文字うちなんて、バイトや秘書にやらせればよい。
その手間よりも、中身を考えることだけが、
脚本を書くという行為なのだ。


中身とは、これまでに論じてきたように、
台詞とト書きで表現される、
焦点とターニングポイントの連鎖である。

それは大きなコンフリクトの文脈であり、
大きくは三幕構造をもつ。
欠損を得るための異物との出会いからはじまり、
何かを学ぶのがテーマで、
それは動き続け、ラストシーンで静止したときに意味が決まる。
この旅とは何だったか、それが観客たる我々に、なんの意味があったのか。
テーマ的な面白さ、構造的な面白さ、人物の魅力など、
重層的に重なった面白さをもち、全ては同時進行するリアルタイム芸のことである。
矛盾がない、全ての理屈が通った、ひとつの軌跡でもある。
ものによれば、何度かのどんでん返しがあるかも知れない。

それは、映画の中身の全てである。

たとえどんなビジュアルが来たとしても本質が変わることのない、
内容の面白さである。


極端な例は、「運命じゃない人」だ。
この映画は低予算で、見た目のビジュアルに労力がかかっていない分、
その何十倍も中身に労力がかかっている。

例えば、予算が潤沢だとして、
ビジュアルに労力をかけることも可能である。
有名実力派キャストを集め、衣装をしゃれた感じにし、
件の部屋はセットでつくりこみアングルも工夫し、
ときにムーディにときに贅沢なライティングをし、
画面の配色やデザインに凝りに凝りまくり、
しゃれた音楽のズバッとした使い方でしびれさせることも可能だ。

しかしそれは、内容の面白さを更新するほどではないのだ。
あくまでビジュアルの、表面上の良さでしかないのだ。
大きくは、この映画の本質的面白さを左右するほどではないのだ。

この映画は、脚本がずば抜けて面白いのであり、
それがどんなビジュアルであっても面白い面白さなのである。
労力という点では、1:500ぐらいの、ビジュアルと中身の格差が生まれている、
稀有な映画である。(とはいえ、秀作のレベルなのだが…)

例えばビジュアルを先にある程度用意してから、
この中身を考えてつくることが出来るだろうか。
否である。
映画の中身の面白さは、脚本からしか生まれないのである。


あとはストーリーだけだな、
という発想をする人に会ったら、
全力で逃げよう。
その人は、決して中身を粘ってつくるだけの、
実力も経験も判断力もない、
浅い見方の人間だ。



例えばCMの例を出そう。
ある商品の特徴を、何故か同時通訳するパターンがよくある。
なんだかぎこちない同時通訳とか、
流暢な実況中継とか、表現の面白さは何パターンかある。
しかし、そのガワの面白さに比べ、
(丸ワイプで同時通訳や手話通訳などのパターン)
実際の台詞原稿が面白かったためしがない。
同時通訳、という表面が面白いだけで、
実際の台詞は、聞きたくもない商品特徴を言っているだけの、
聞くべき価値のない言葉だからだ。

中身の台詞がとてもよく練られて、
ウィットにとんだり発見があったり、
有意義な台詞になっているわけがない。
それは、ガワの面白さの発想の労力の、
9倍の労力をかけていないからだ。
せいぜい2、3倍の手間しかかけていないからだ。
1日で思いついたとしたら、9日間台詞だけを考えていないからだ。
中身を練るには、それくらいの粘りが必要なのだ。

帰りの東急線内で、パナソニック製品のCMをよく見る。
全てガワの面白さに寄りかかった、中身のないものばかりで、
毎度毎度ヘドが出る。あんなもん、下の下である。
posted by おおおかとしひこ at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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