2014年04月15日

芝居に詳しくなること

あなた自身が、俳優の経験をつむとよい。
プロの俳優でもよいし、
アマチュア劇団でも、誰かの自主映画に出演でもいい。

それは、役者が台本とどう向き合うかを、知ることである。
当たり前だが、役者は一ヶ月ぐらい、
同じ台本のことを、毎日考える。
その役の立場から、話を考え続ける。
そして、その役の魂を自分に宿すのだ。
そんな生活をしてみることだ。


その役は何をしたいのか。
その場面で何をしたくて、障害は何なのか。
どんな気持ちでここに立っていて、
どこから来てどこへ行こうとしているのか。

それは、既に台本に書いてある筈だ。
いちいちリストアップされないが、
よく出来た台本は、読み取れるように書いてある。

万が一読み取れない、まさかのそこまで作者が考えていない場合、
役者というものは、
こうだったら面白い、という文脈を想像する。
欠けたものを想像で復元する行為である。
「こうだったら面白い」の基準はいくつかあって、
自分だけが面白いとき、全員が読み取れなくてもよく見れば分かって面白いとき、
誰もがそれと分かってかつ面白いとき、
などの、段階に分かれる。
その配分を目分量でやるのが、優れた俳優だ。

つまり、俳優というのは、自分の役に関しては、
ときに脚本家よりも多くのことを感じ、想像するのである。

この人物の内面はなにか。
どうやれば捉えられるか。
たとえ作者が考えていなくても、
ある材料から読み取るのだ。
(一種の二次創作のようだ)

これらの能力を、肉体の表現力に対して、解釈力という。
解釈の能力とは、殆ど脚本家と同等の能力を持つことでもある。

自ら脚本を書く俳優は、
台詞をよく書き直す能力がある。
意図する文脈に、より適切な台詞を、脚本家より上手く書く場合もある。
(いわゆるシェイクスピア俳優は、
その能力があるから、世界一と言われるのだ)
全ての場面でそれが出来る訳ではないが、
役のことを考えていれば、
その人はこう言うだろう、という想像は出来るものだ。

しかもその台詞は、リアルでかつ文学的であらねばならない。


役者から、脚本がどう見えているかを、
役者として体験しよう。
出来れば、複数の他人の台本に、深く関わるのがよい。
いい台本、悪い台本も、経験的に分かってくる。
つまり、「台本慣れ」をするのだ。
戯曲集やシナリオ集を読むだけではそれは分からない。
演じる行為、同じ台本を前にみんなで議論することを通じてしか、
分からない領域がある。

ある芝居をどうすればよいか、
たとえば誰を見て言うべきか、
どんな所作のどこで言うのが意図が伝わるのか、
そもそもその意図はなにか、
台詞の抑揚や間はどうすべきか。
役者は、台本からベストをつくりあげる。
それは、細かくは書いていない。
台本には意味や意図が隠されている。
それを読み取り、その意図が芝居で伝わるようにする、
出来ればそのベストの芝居をするのが役者の仕事だ。



それを体験すると、いい台本がどうあればいいかわかるし、
自分の書く台本が、だめかどうかも分かるようになってくる。

いい台本とは、脚本家のための本ではない。
スタッフやキャストのための本だ。
(最近、ド素人の製作委員会のための本になりつつあるが)
posted by おおおかとしひこ at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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