あなた自身が、俳優の経験をつむとよい。
プロの俳優でもよいし、
アマチュア劇団でも、誰かの自主映画に出演でもいい。
それは、役者が台本とどう向き合うかを、知ることである。
当たり前だが、役者は一ヶ月ぐらい、
同じ台本のことを、毎日考える。
その役の立場から、話を考え続ける。
そして、その役の魂を自分に宿すのだ。
そんな生活をしてみることだ。
その役は何をしたいのか。
その場面で何をしたくて、障害は何なのか。
どんな気持ちでここに立っていて、
どこから来てどこへ行こうとしているのか。
それは、既に台本に書いてある筈だ。
いちいちリストアップされないが、
よく出来た台本は、読み取れるように書いてある。
万が一読み取れない、まさかのそこまで作者が考えていない場合、
役者というものは、
こうだったら面白い、という文脈を想像する。
欠けたものを想像で復元する行為である。
「こうだったら面白い」の基準はいくつかあって、
自分だけが面白いとき、全員が読み取れなくてもよく見れば分かって面白いとき、
誰もがそれと分かってかつ面白いとき、
などの、段階に分かれる。
その配分を目分量でやるのが、優れた俳優だ。
つまり、俳優というのは、自分の役に関しては、
ときに脚本家よりも多くのことを感じ、想像するのである。
この人物の内面はなにか。
どうやれば捉えられるか。
たとえ作者が考えていなくても、
ある材料から読み取るのだ。
(一種の二次創作のようだ)
これらの能力を、肉体の表現力に対して、解釈力という。
解釈の能力とは、殆ど脚本家と同等の能力を持つことでもある。
自ら脚本を書く俳優は、
台詞をよく書き直す能力がある。
意図する文脈に、より適切な台詞を、脚本家より上手く書く場合もある。
(いわゆるシェイクスピア俳優は、
その能力があるから、世界一と言われるのだ)
全ての場面でそれが出来る訳ではないが、
役のことを考えていれば、
その人はこう言うだろう、という想像は出来るものだ。
しかもその台詞は、リアルでかつ文学的であらねばならない。
役者から、脚本がどう見えているかを、
役者として体験しよう。
出来れば、複数の他人の台本に、深く関わるのがよい。
いい台本、悪い台本も、経験的に分かってくる。
つまり、「台本慣れ」をするのだ。
戯曲集やシナリオ集を読むだけではそれは分からない。
演じる行為、同じ台本を前にみんなで議論することを通じてしか、
分からない領域がある。
ある芝居をどうすればよいか、
たとえば誰を見て言うべきか、
どんな所作のどこで言うのが意図が伝わるのか、
そもそもその意図はなにか、
台詞の抑揚や間はどうすべきか。
役者は、台本からベストをつくりあげる。
それは、細かくは書いていない。
台本には意味や意図が隠されている。
それを読み取り、その意図が芝居で伝わるようにする、
出来ればそのベストの芝居をするのが役者の仕事だ。
それを体験すると、いい台本がどうあればいいかわかるし、
自分の書く台本が、だめかどうかも分かるようになってくる。
いい台本とは、脚本家のための本ではない。
スタッフやキャストのための本だ。
(最近、ド素人の製作委員会のための本になりつつあるが)
2014年04月15日
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