2014年04月16日

ビジュアルと中身の労力の話、つづき

シチュエーションはいいんだけど話がねー、
キャラは面白いのに話がねー、
最初はワクワクしたのに後半の話がねー、
こういう絵が撮りたかっただけなんでしょ、
このキャストで、別の話で見たかった、
メロディがいいのに、歌詞がだせえ、

これらは、どれもビジュアル(ガワ)の出来に対して、
中身の出来が追いついていないものへの言葉である。
このイマイチのものをつくったとき、
どう直せばよくなるのだろうか。


多くの素人は、
誉められた所をなるべく残して、
駄目だった所を直そうとする。
既に60点ついているのだから、
あと40点取ればいい、という加算方式である。
ガワの良さはいいのだから、
更に話を練り込めばいいのだと思い、
ガワを残したまま、
新たな中身を(しかも残したガワに合わせた)つくろうとする。
つくるのはましな方で、ちょっとしたアレンジでどうにかしようとする。

これは、間違いである。


人間関係を思い出そう。
欠点も長所もある人に出会ったとき、
イマイチだなと思ったら、
欠点だけを直して、大好きになるだろうか。
60点の評価が、80点90点に近づくか。
否である。
ガワがいい、例えばイケメンやアイドル並だとして、
中身がイマイチの人を、
性格を多少良くしただけで、
イマイチから大好きになるだろうか。
否である。
せいぜい、「ましになった」というだけだ。

人間関係はプラモデルや部品集積やテストの採点のように、
線形加算方式ではない。
別の基準、根本的に好きになるかで決まる。
それは、ジャストミートする好きなポイントがある、
という採点だ。
それがあれば、多少の欠点は目をつぶるのだ。
スーパー好みのビジュアルなら、
中身はなんでもいい、という極端さえ、あり得る。

しかし今問題にしているのは、
ガワはいいんだけど中身がね、という、
イマイチの人間についてである。
メイクや髪型や服で多少誤魔化しても、
もはや魂を射ぬかれるほどのスーパー好みではないから、
欠点だけが目立つものである。


物語も、実はこれと同じ採点方式だと思う。

60点の欠点をいくら直しても、65や66ぐらいにしかならない。
80や90には決してならない。

パーツに分解し、それぞれを足しあわせる、
というのは近代の機能主義の結論であるが、
それが線形加算可能なのは、本質が線形加算可能な系に限る。
人間関係も物語も、線形加算可能な系ではない。

40点と90点の二人と両方並べて、平均の65点はつけない。
40点のイライラが残るだけなのだ。
40点いらないので、90点の一人だけでいいです、
というのが、人間関係や物語の採点方式である。


具体的にどうすればいいか。
ガワを一旦忘れるのだ。

誉められたシチュエーション、導入、キャラ、セリフなどの、
表面的なものを、一端なかったことにする。
そして、誉められなかった部分だけ、
この場合中身だけを取り出す。
これが世界の全てだと思う。
ガワで下駄をはいていた、駄目なところだけを、
世界の全てにする。
これを、いいと思うものに練り直す。

どうせ駄目なのだから、どこをどう変えてもいいはずだ。
原型をとどめないぐらい変形、追加、削除しまくり、
そもそもの本質を変えるぐらい、変えても構わない。
最初のと似ても似つかないものにしてよい。
むしろ、そうしないと、「いい」にはたどり着けない。
以前より全く別の「いい」に、結局たどり着くことの方が多い。

そこでようやく、以前誉められたガワを、持ってくる。
今の「いい」に利用できるところは利用し、
使えないところは無理に合わせず、また新たにガワを作り直す。

人間でいえば、髪型だけ残して全とっかえ、
ぐらいの勢いでも構わない。
中身がよくなっていれば、
良くなったじゃん、と、必ず言われる。
前のシチュエーションやキャラも好きだったけど、
今回のほうがいいな、
となる。
65点ではなく、70や80や90を叩き出すだろう。


人間関係と物語は、この点で似ている。
いい悪いは、単純な加点を足していく方式ではない。
好きになるジャストミートが、いっこあればよい。
そして、人間も映画も、
ビジュアルではなく中身のことを、言っているのである。

これに反対するなら、
ビジュアルだけで中身のない、
「ザ・セル」を思い出そう。
あそこまでビジュアルを極めてるのに、
ビジュアルはいいけど話がねー、と結局言われるのだ。


リライトは、勇気がいる。
イマイチな部分に対峙する勇気が。
自分はイマイチだと認める勇気が。
イマイチなものから、いいものに変換する自信がなくても、
それを転がして練り続ける勇気が。
その勇気がない者が、
誉められた所を残して保険をかけようとする。
ガワはいいからいいじゃないか、と開き直る。
イケメンや美人で何が悪い、と開き直り、
中身の悪さに向き合う勇気のなさを隠す。
その隠すことが、イマイチなのだ。

ビジュアルの良さに労力をかけたから、
その苦労を台無しにすることを嫌うのだ。
そのビジュアルにすがらないことが、本当は正解なのに。



ビジュアルをつくる労力に比べ、
中身をつくる労力は、前記事ではとりあえず9倍、としてみた。
もっとかかるかもだ。
posted by おおおかとしひこ at 11:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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