2014年04月16日

デジタルは人を幸せにしない:要約能力の低下

度々論じている、デジタルは人を幸せにしないシリーズ。
今回は、要約について。

最近、写真を撮らなくなった。
デジカメを手に入れたときは、山ほど撮った。
すごく小さい奴で、640*480の、
SDテレビ画質(720*540、ただしアスペクト0.9なので実質720*486)
より少し小さいだけなので、拡大すればテレビサイズにも使えるやつだった。
その時のほうが、
今の高画質よりも、写真の本質を学べた、という話。


画素は少ないとはいえ、テレビサイズだから、
僕らの撮る1フレと遜色はなかった。
元々カラコレ(デジタルによる色補正)を、
フォトショで覚えようとしていた。
ガンマカーブ、暗部や明部や中間部、フェイストーンの作り方、
その他トーンとは何ぞやを勉強していた。
銀残しやポジテレが流行ったり、
増感で荒らしたり、ビビッドにしたり色を抜いたり、
全体にグリーン調やブルー調に色を乗せたり、
逆にアンバー調にしたり、硬くしたり眠くしたり、
Fを絞ったり解放にしたり、
トーンで何もかも変わるのだと信じていた。

ある程度何でもトーンを再現できるようになると、
今度は何をどう撮ってるか、という内容が写真を決めることに気づく。
トーンはその撮った意図を強調したり、
しゃれて見せるだけの補正なのだと分かってくる。

このとき、SD画質なのが幸いした。
これは要はなんなのか、ということが、SDだと分かりやすいのだ。

一枚につき、ひとつのことを表現していることが、
まずその条件なのだと分かってくる。

その強さが、写真の強さなのだと分かってくる。

いくつものことを同時に撮ることは、
写真ではない。記録だ。
写真が芸術として許されるのは、
ひとつのことを表現するからだ。

ひとつのことを表現するとは、
余計なものを排除することだ。

画質が荒いと、たとえ排除しなくても、
アングル的に排除したように撮ることができる。
強調するところを大きく占めれば、
他は数ピクセルになってくれる。
高画質ではこうはいかない。
何かひとつを構図内で大きく強調したとしても、
排除すべきもののディテールまで、しっかり写ってしまう。
それを避けるには、
フォーカスをはずしたり、そもそもアングルに入れなかったり、
物理的に排除するなどの、「掃除」の手間が必要だ。

低画質では、9を表現についやし、1を掃除に費やせばいい。
が、高画質では、3掃除して、7で表現する。
どちらが、表現が鍛えられるだろう。
5000枚とって、差がつかないはずがない。


ひとつの写真に、ひとつの表現意図。
これは、写真だけのことではなく、
すべての表現に言えることだ。
文章、音楽、芝居、プロポーズ。
どれだけ長かろうが、
ひとつの作品は、要約すればひとつの表現意図である必要がある。
(ひとつのシニフィアンは、ひとつのシニフィエである必要がある。
その意味として作品が記憶される。映画で言えば、これまで論じてきたとおり、
ラストシーンである)
そうでなければ、ごちゃごちゃするだけなのだ。

低画質で鍛えると、
要するに、要約能力が鍛えられるのだ。


これは一言でいうと、なんなのか、
を突き詰めるようになるのだ。



翻って、今の高画質写真やムービーを見てみよう。
何が撮りたいのかわからないものが、ちまたに溢れている。

バラエティー番組は字幕だらけで、本質的な面白さはむしろ後退し、
画質向上は中身の向上に寄与していない。
ゲームの高画質化はゲームを幸せにしたか。
スゲエと思ったのは最初だけで、ファミコン時代のようなゲームそのものの面白さは、
その後連発しているか。
ドラマはハイビジョン化が早かったが、
中身は6倍の画質に見合う、6倍の面白さになったか。
映画は昔シネラマといって、横を広くした。
それらは、中身の面白さも広くなったか。
全て否である。

ついでにCMは。
ハイビジョン化したCMは、絵をもてあましている。
高画質なので、何かで埋めなければいけない症候群にかかっている。
もっとシンプルでいいのに。
何を一番いいたいか、絞るだけでいいのに。
それが面白いかどうかを、練るだけでいいのに。


高画質になったことで、「掃除」の手間ばかりが増えた。
その高画質、いる?
要約する力、ひとつの凄いものをつくる力を、
結果的に奪ってない?

もし全ての文章が、俳句しかないと仮定しよう。
ならば、みんな、内容だけに集中できるのではないか。
なまじ何千字も書けるから、本質が揺れてしまうのではないか。


デジタル世界では、ハイスペックが出ると
それがデフォになる。
ロースペックは存在価値がなくなり、
そのハイスペック内でやらなければならない。

しかし、ハイスペックであればあるほど、
それは要約から遠ざかる。
要約が難しくなる。
ノイズ混入が増え、秩序をエントロピーが壊しやすくなる。


それは、一言でいうと何?
どんな時代であれ、作品と内容の関係が変化することはない。
完成した名作はどうでもいい。
そこに至る道程の我々が問題だ。

かつて名作をつくった人の、
習作のスペックで習作することは悪くない。

それは、必ず、低画質で本質を鍛えていたことだからだ。


デジタルは人を幸せにしない。
作品と内容の密接な関係を、作者と作品の濃密な関係を、
高画質化で曇らせる。
要約の高みへの到達を、手間が増えて邪魔をする。
今の惨憺たる現状をみよ。
4K?あほか。
その前に(大衆という)テレビがなくなるかも知れないのに。
posted by おおおかとしひこ at 12:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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