2014年04月20日

「おわり」まで書くことの重要性

どんな脚本入門書でも、これを強調しないものはない。
何故だろう。

僕は、テーマとの関係で論じようと思う。


テーマは、ラストシーンで定着する。
今まで○○を描いてきたのだが、
ラストのラストでひっくり返すことだって出来る。
物語は、ラストを迎えるまでテーマは決まらない。

小説やマンガなど他のメディアよりも、
映画は、テーマとの関連がおそらく厳しく評価される。
見るのに2時間という、他に比べて短い時間で全体を把握されるからだ。
ん?だとしたら、あそこ変じゃね?
と、おかしい所があれば、簡単に感づかれてしまうからだ。
(しかも、それを単なる辻褄合わせでは詰まらないと言われる。
面白い辻褄合わせにしなければならない)


物語はテーマに沿い、テーマが物語に沿う、
その密着具合は、なかなか第一稿で完璧に書くことは難しい。
だから脚本はリライトが前提である。

マンガや小説でリライトはあまり聞かない。
(連載が単行本で加筆はたまにあるが、
本質がまるで変わる例は珍しい)

第一、第一稿を書いているときに、
そこまでテーマをジャストで決めていないことの方が多い。
殆どは、とりつかれたように書いている筈だ。
それを引いて見たとき、
この物語はこれについて書いていたのか、
と自分で発見することすらあるものだ。
そして気づくのだ。
このテーマなんだとしたら、もっと他にやり方があっただろう、と。
そして、第二稿に入るのである。

小説やマンガの長編にくらべ、
映画脚本の執筆は、芝居や楽器演奏のテイク2、3に近い。
ちょっとニュアンス変えてやってみるか、
ちょっと構成変えてやってみるか、
ちょっと細部変えてやってみるか、
ちょっと解釈変えてやってみるか、
などのようなことに似ている。

それもこれも、テーマが明確だから出来るのである。
テーマが明確でなければ、それは単なるランダムな試行錯誤に過ぎず、
IQのない行為である。
試しにやってみる、というテイクを重ねる行為の良し悪しは、
好みではなく、テーマとの連関性で取捨選択すべきである。

最近のCMでは、テーマも決めず、なんかやらせてみて、
繋ぎながらテーマをつくる馬鹿が増えた。
そんなんだったら最初からやってたものは全部無駄だわ、
ということが莫大に増えた。
それらの試行錯誤は、現場ではなく、台本の時点でやるのである。

台本には、これしかあり得ない、究極の最適解に詰めておくべきである。
だからそれに現場は向かっていけるのだ。

テーマに沿う順目と、逆らう逆目と、わざと混乱させるトリックスターと、
三種類を使い分けてものごとを進めるための、ニュアンスを考えることが出来るのだ。
それもこれも、
テーマが明確な矢印を持って常に灯台のように全体を照らしていない限り、
出来ないではないか。

そのような台本を、脚本家が書いてない限り、
一生そのように豊かにつくることは、出来ない。
脚本どおりにつくることが精一杯で、
それにそれぞれの才能をのっけよう、なんてプラスの要素をつくることは出来ないだろう。
(だから最近のCMは、作り方からしてなっとらん。
仕上がりのつまらなさは見てわかるだろう。
あなた方は、この愚かな真似をする必要はどこにもない。
編集中にテーマを発見するのは、順序がおかしい。
最近の仕事で、編集中にターゲットを狭くするのか広くするのか、
という議論になりはじめた。お客さん、それは俺に頼む前に決めてくれや)


テーマを明確にし、
それに合わせて部分を構築するには、慣れがいる。

最初にテーマだけをつくり、
その一行だけで、つくるべきものか、行けるかどうかを判断する、
判断力と勇気がいる。

テーマから部分をつくる、合理的なやり方でない場合は、
ひたすらライトとリライトを繰り返す、カオスな方法論しかない。
若いうちはそのガムシャラでもよいが、
地図もない町をさ迷うのと同じで、
最初の頃はいいけど、そろそろ大体でいいから地図をつくろうぜ、
と思うようになってくるものだ。

脚本は、そこからが本番だ。


そうなる為には、何度か「おわり」を書いている経験が必要なのだ。
登場人物たちと、苦楽をともにし、
長い旅と感情移入を経て、
彼らと自分の旅の意味が定着し、
二度と彼らと旅をすることもない、
切なさを味わう経験を、
何度もする必要があるのだ。

代表作は、ネクストワン。
それは、次はもっとうまくやれるぜ、という、
経験に裏打ちされる、反省を持っているということだ。
それは、今まで何回失敗し、
何回リカバーしたか、というあなたの経験値が決める。


今から書こうとする尺の、「おわり」まで書いたものが、
何本あるか?
その本数分、テーマとの関連がきちんとしたものに、書ける筈だ。
一本もないのなら、地図もなくガムシャラにさ迷おう。
ゴールに一度もたどり着いていない者は、
童貞にすぎない。
童貞のセックスは見苦しいが、それをしない限り、
エレガントにはたどり着けない。

人間のする行為は、泥臭いものだ。
創作は、その中でも最も泥の中にまみれることのひとつである。
(デジタルが人を幸せにしないのは、その泥臭さを意識させないからだ)
posted by おおおかとしひこ at 13:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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