というキーワードで検索してうちのブログに来た人がいるようで、
面白いテーマなので書いてみようと思う。
ざっくり言うと、多くの人が楽しめるため、
だと思う。
どの程度のフィクションで、
どの程度の現実味かにもよるけど。
剣と魔法のファンタジーなんだから、そこはいいじゃないか、
という所と、そこはリアリティーがなくておかしい、
という所があるのは何故か、
どこらへんが違いなのか、
のような問いだと想像してみる。
フィクションだろうがドキュメントだろうが、
観客は、その世界に入り込む。
そのときに、ひとつだけルールがある。
それは、
「事前に説明があることは、そういう世界だと思って入り込む。
しかし、それ以外のことは、デフォルト値で想定する」
ということだ。
この場合のデフォルトは、
「そのフィクション世界以外の世界、すなわちその人の馴染んでいるいつもの世界」
である。
たとえば剣と魔法の世界だと事前に説明すれば、
そのようなフィクションだとして、
観客は世界に入ってくる。
次に恋愛描写、たとえば愛の告白→付き合う、
という話がきたとする。
これは、剣と魔法の世界の定義にはなかったので、
デフォルト、つまり我々の身の回りで起こる恋愛ごと
(フィクション世界も含む)で理解しようとする。
そこにリアリティーがない場合(たとえば童貞が書いたようなラブストーリー)だと、
フィクション世界なのに、リアリティーがないと感じるものだ。
もしこの世界が、童貞の書くラブストーリーで
愛が成就するような世界だとして、
そのように事前説明があれば、
別に違和感は感じないものである。
が、これでは、事前説明を無限にしなければならないことになる。
いくら特殊な世界を描こうとしたとしても、
説明だけで30分かかるような映画はうんざりだ。
最初の説明は、映画では5分から7分程度までだ。
でないと、説明はいいから、話をはじめてくれよ、となってしまう。
(連ドラの場合、1、2話ぐらいか)
だからフィクションでは、よりシンプルな嘘が好まれる。
大嘘をいっこついておいて、
あとはそこから類推されるようにして、
その他はデフォルト、というのがスタンダードだ。
剣と魔法、という大嘘をいっこついたら、
下手な告白に必ずイエスと言わねばならない、
という嘘を追加することは、
世界の理解をややこしくさせるのである。
それでは、
現実とかけ離れたフィクション世界は構築しにくいではないか、
となってしまう。
これを助けるのが「お約束」である。
フィクション世界にはよくあること、
をしれっと使って、話の進行を止めないようにするのだ。
たとえば、
主人公はどんな危機に陥っても死なない、とか、
コメディでは高いところから落ちても死なない、とか、
犯人は現場に戻る、とか、
ラブコメではいいところに必ず邪魔が入る、とか、
ドラキュラは日光で溶ける、
とかの暗黙ルールだ。
(この暗黙ルールに言及するジャンルが、メタである。
人物が観客に話しかけることはない、を破って見せたのが、
ウッディ・アレンの「アニー・ホール」だ。パロディとかメタのジャンル、
ともはや言えるかも知れないが)
フィクション世界で既に確立されたものを使うわけだから、
いくつかの欠点がある。
それに馴染みのない人には違和感があることと、
全く新しいことはその制限のため使えないことだ。
アンデッドは光系魔法が効く、とか、
飛行機の設計とは軽さや抵抗と強度の戦いである、とか、
男子校ではエロ本マスターが一番偉い、とか、
フィクション世界であろうとノンフィクション世界であろうと、
馴染みのない文法は、説明がない限り拒否するものである。
これをどれくらい事前説明するべきかは、
ターゲット選定と関わってくる。
マニアックであればあるほど、
その説明は飛ばしてよいし、
広い層を狙うなら、最低限の説明は重要だ。
たとえば釣りとかF1とかの趣味のこと、
オシャレテクニックみたいな細かいこと、
その業界でしか通用しないこと、
などは、説明がないときっと分からないだろう。
それを、どれだけ説明するか、どれだけ省略してもわかるようにするかは、
センスとターゲットの広さの問題なのだ。
勿論、最初に全てを説明しなければならない、
という訳でもない。
「伏線は初出に仕込む」でも議論したように、
その時々、初出に説明をするだけでもよい。
だから物語の前半戦は説明が多く、
後半戦は説明が少なく怒濤の展開になるのである。
説明だけを延々聞く、馬鹿正直な観客はいない。
話が面白いから観客は見続けるのであり、
説明を聞きに来ている訳ではない。
だから、なるべく説明が少ないに越したことはない。
原則は、その話を理解するだけの最低限で、
それ以上はしなくてよい、である。
80年代ビリヤードブームを起こした「ハスラー2」では、
ビリヤードが場末のギャンブルで使われており、
しかも世界大会があり、
最初に先手を決めてブレイクして、
ミスがあれば交代で、9ボールをポケットしたほうが勝ち、
以外の知識は、映画内では示されない。
ナインボールの詳しいルールは説明されないが、
話を見る分にはなんだか面白そうなゲームに見える。
(だから流行った)
老人プレイヤーが生きのいい若手をスカウトし、
場末のギャンブルでコンビを組んで稼ぐことや、
表の大会より裏の大会のほうが賞金が高いことなど、
それ以外のデフォルトは、我々のリアル世界のものである。
だから、ビリヤード世界という、我々には馴染みのない、
いわばフィクション世界だとしても、話は分かるし、
リアリティーを感じるのだ。
何故フィクションに現実味を求めるのか。
フィクションに現実味を求めてなどいない。
説明のない部分を、デフォルトで補っているだけだ。
その想定とあまりに違うことが出てくれば、
現実味がないなあ、と思うだけに過ぎない。
フィクションたる部分は、
説明をそのたびに必要とする。
広い層を狙うなら、説明は少ないほうがいい。
それだけのことである。
ピアノ演奏シーンを例にとろう。
のだめカンタービレのようなコメディでも、
演奏はきちんと撮っている。
それは、ピアノ経験者がある程度沢山世の中にいて、
そこをフィクションにすると違和感を感じるからだ。
これがビリヤードなら、ある程度無視されるかも知れない。
サッカーが日本で知名度の低かった頃の漫画「キャプテン翼」は、
フィクションとはいえ反則だらけのプレイだった。
いまやそれがリアリティーがない、と認識されるのは、
見る側のサッカーの知識が増えたからだ。
つまり、フィクションと現実味の境目は、
見る側にある。
作家は、これを敏感に感じながら、誘導していかなければならない。
(僕はいまだに少女漫画における男の喧嘩シーンの嘘くささに馴染めない。
BLについてはなおのこと。フィクション、という枠をどう考えるかでもあるけど)
2014年04月20日
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