2014年04月22日

サンタクロースは、いる?

誰もが子供の頃いると信じて、
誰もがいないとわかってしまって、
誰もが大人になると、二種類の人間になる。
サンタはいない、という大人と、
サンタはいるよ、と子供に言う大人に。

我々はフィクションを紡ぐ者だから、
存在しない世界を、存在するかのように語る。
だから、我々は、サンタはいる派だ。


いまだにスピルバーグが、
名作「E.T.」をCGでレタッチし、
元の味のあるパペットによる表現を全否定したことには、
合点がいかない。

CGがリアルであり、
他の時代遅れの技術は、リアルじゃないから駄目だ、
というのは、ストーリーテラーではない。

たとえ人形による表現でも、
命を持ったかのように見せる、お話こそが重要なのだ。
E.T.の話はその領域にいたのに、
誤ったリアル志向のせいで、オリジナルを書き換える暴挙にでた。
同工異曲の「super8」と比較するとよい。
CGが進んだ分、面白くなったか。
否であった。余計詰まらなくなった。
おとぎ話要素が減ったからだ。
もっと夢を見ていたい所で、
CGのリアルさが邪魔になってくるのだ。

E.T.の素晴らしさは、前半部のなかなか姿を見せず、
ちょいちょい部分しか見せないチラリズムだ。
これによって我々の想像力が刺激され、
期待感が高まるような仕掛けをしている。
(これは「未知との遭遇」「ジョーズ」さらには「激突!」と、
スピルバーグがやってきた、うまい焦らしでもある。
当然、「ジュラシック・パーク」でも使われる)
フードから覗く顔に対面するとき、
なんとも言えない、見てはいけない神秘に触れたような、
見てしまったがゆえのガッカリにも似た、
複雑な感情を、見た当時の子供の頃は覚えたものだ。
(そのオリジナル版が見れないのが腹立つ)

CGは、パンチラではなく、パンモロではないだろうか。
リアルだという信仰が、
それをただ正面から捉えることだけでドヤしていて、
それまでに必要な、想像力の刺激から正体を現すまでの、
ベールを剥ぐ楽しみを奪っているのではないか。


サンタクロースはいない、という大人は、
CGやパンモロの世界に生きている。
つまびらかにすることは、悪いことではない。
科学的態度だし、そのように人類は発展すべきである。

が、それは、物語的面白さとは、別のベクトルなのだ。
スカートがひらひらしていて、パンツが見えそうな、
存在するかしないか分からない、その秘密への誘引力が物語である。
パンツの話で下品なら、サンタに言い換えてもいい。
「サンタはいるかも知れない」と思わせることが、
物語の力だ。
貧乏で死にそうな人に恵んでくれる人がいれば、
神はいると思うし、
枯れ尾花が揺れたら幽霊のせいだし、
ウイスキーの熟成時体積が減るのは、アルコール結合が進んだからではなく、
天使が試し飲みをして、お代にちょっとだけ美味しくしてくれたからだ。

何故なら、「そう考えたら面白い」からである。
物語による科学的現実の解釈は、一種の魔術である。
だから科学より、インチキ錬金術に近い。
恐らく鍵になるのは擬人法だ。
人間は、あらゆるCG的科学的つまびらかな現象を、
おそらく擬人法でしか理解できないのだ。
(神話における神、艦これなどの女体化、剣と剣で801など。
これを一緒に論じる俺も俺だが)


僕は量子力学やテンソル代数(相対性理論の基礎)あたりでつまづいたのは、
擬人化が頭の中で上手く行かなかったからだ。
理解している人の頭の中がどうなっているのか、
詳しく聞いてみたら、記号列としてとらえているという。
つまり、意味や擬人化として認識していないと言うのだ。
コペンハーゲン解釈やシュレディンガーの猫のパラドックスも、
記号的にはそのようになるだけで、
意味や擬人化とは関係ないと考えているらしい。
ああそうかと。純粋数学の続きがここにあるのかと。

僕が宇宙物理に興味を持ったのは、高校物理の古川先生が、
突然教科書を放り出して、一時間ボイジャーの軌道計算をしてくれたからだ。
ボイジャーが木星にたどり着き、
たまが「さよなら人類」をヒットさせた年のことだ。
教科書にある方程式を取り出して、
微分方程式や積分はこの為に出来たのだと、
ニュートン力学のちょっとした歴史も交えてくれる。
当然高校生では楕円軌道の微分積分まで習っていないから、
ニュートンの師匠の面積速度一定の法則から、
ボイジャーの楕円軌道の、地球木星間の移動時間を計算した。
運動方程式は秒単位だから、年に換算する。
打ち上げた年にその年を足すと、今年の西暦になる。
「つまり、今年、ボイジャーは木星につくのです」と締めくくったラストシーンを、
僕はいまだに覚えている。
記号の羅列だった数学が、
急に現実を切り開く道具になる瞬間を見せてくれたのだ。

ところが大学数学では、そのような擬人化に出会うことはなかった。
で、本格的に僕は理系を諦め、物語の世界を目指すことにした。

CGは、どんなにリアルにつくったとしても、
生きていない。
それは、記号だからだ。
生きているとは、物語になっていることを言う。
パンモロは生きていない。死だ。パンチラしそうなことが、物語である。
単なる方程式や記号操作は死だ。それが今の我々に何の物語を生むかだ。
サンタがいないと言い切るのは死だ。そこには荒野と記号しかない。

サンタはいるよ、と言う意味には、複数の意味が重なっている。
我々は物語を食べて生きる生き物だ、という意味と、
そのように生きている人の群れである、という意味だ。
だからサンタはいる。
サンタがいる、というのは、物語がいる、という意味と等しい。


毎年、アメリカ空軍が、サンタの現在位置をレーダーで中継するという。
現代に更新されたサンタの物語を見て、
これを考えた奴の才能に嫉妬したものだ。

高校を卒業して随分になる。古川先生も引退なされただろう。
木星、天王星あたりはホットだったが、それ以外の年は話題に困ったことだろう。
それこそ天文学的な確率で、その話を古川先生がすることができ、
それこそ天文学的な確率で、僕はその瞬間にたちあった。

物語とは、そのような奇跡を描くことだ。
だから、サンタはいる。
posted by おおおかとしひこ at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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