誰もが子供の頃いると信じて、
誰もがいないとわかってしまって、
誰もが大人になると、二種類の人間になる。
サンタはいない、という大人と、
サンタはいるよ、と子供に言う大人に。
我々はフィクションを紡ぐ者だから、
存在しない世界を、存在するかのように語る。
だから、我々は、サンタはいる派だ。
いまだにスピルバーグが、
名作「E.T.」をCGでレタッチし、
元の味のあるパペットによる表現を全否定したことには、
合点がいかない。
CGがリアルであり、
他の時代遅れの技術は、リアルじゃないから駄目だ、
というのは、ストーリーテラーではない。
たとえ人形による表現でも、
命を持ったかのように見せる、お話こそが重要なのだ。
E.T.の話はその領域にいたのに、
誤ったリアル志向のせいで、オリジナルを書き換える暴挙にでた。
同工異曲の「super8」と比較するとよい。
CGが進んだ分、面白くなったか。
否であった。余計詰まらなくなった。
おとぎ話要素が減ったからだ。
もっと夢を見ていたい所で、
CGのリアルさが邪魔になってくるのだ。
E.T.の素晴らしさは、前半部のなかなか姿を見せず、
ちょいちょい部分しか見せないチラリズムだ。
これによって我々の想像力が刺激され、
期待感が高まるような仕掛けをしている。
(これは「未知との遭遇」「ジョーズ」さらには「激突!」と、
スピルバーグがやってきた、うまい焦らしでもある。
当然、「ジュラシック・パーク」でも使われる)
フードから覗く顔に対面するとき、
なんとも言えない、見てはいけない神秘に触れたような、
見てしまったがゆえのガッカリにも似た、
複雑な感情を、見た当時の子供の頃は覚えたものだ。
(そのオリジナル版が見れないのが腹立つ)
CGは、パンチラではなく、パンモロではないだろうか。
リアルだという信仰が、
それをただ正面から捉えることだけでドヤしていて、
それまでに必要な、想像力の刺激から正体を現すまでの、
ベールを剥ぐ楽しみを奪っているのではないか。
サンタクロースはいない、という大人は、
CGやパンモロの世界に生きている。
つまびらかにすることは、悪いことではない。
科学的態度だし、そのように人類は発展すべきである。
が、それは、物語的面白さとは、別のベクトルなのだ。
スカートがひらひらしていて、パンツが見えそうな、
存在するかしないか分からない、その秘密への誘引力が物語である。
パンツの話で下品なら、サンタに言い換えてもいい。
「サンタはいるかも知れない」と思わせることが、
物語の力だ。
貧乏で死にそうな人に恵んでくれる人がいれば、
神はいると思うし、
枯れ尾花が揺れたら幽霊のせいだし、
ウイスキーの熟成時体積が減るのは、アルコール結合が進んだからではなく、
天使が試し飲みをして、お代にちょっとだけ美味しくしてくれたからだ。
何故なら、「そう考えたら面白い」からである。
物語による科学的現実の解釈は、一種の魔術である。
だから科学より、インチキ錬金術に近い。
恐らく鍵になるのは擬人法だ。
人間は、あらゆるCG的科学的つまびらかな現象を、
おそらく擬人法でしか理解できないのだ。
(神話における神、艦これなどの女体化、剣と剣で801など。
これを一緒に論じる俺も俺だが)
僕は量子力学やテンソル代数(相対性理論の基礎)あたりでつまづいたのは、
擬人化が頭の中で上手く行かなかったからだ。
理解している人の頭の中がどうなっているのか、
詳しく聞いてみたら、記号列としてとらえているという。
つまり、意味や擬人化として認識していないと言うのだ。
コペンハーゲン解釈やシュレディンガーの猫のパラドックスも、
記号的にはそのようになるだけで、
意味や擬人化とは関係ないと考えているらしい。
ああそうかと。純粋数学の続きがここにあるのかと。
僕が宇宙物理に興味を持ったのは、高校物理の古川先生が、
突然教科書を放り出して、一時間ボイジャーの軌道計算をしてくれたからだ。
ボイジャーが木星にたどり着き、
たまが「さよなら人類」をヒットさせた年のことだ。
教科書にある方程式を取り出して、
微分方程式や積分はこの為に出来たのだと、
ニュートン力学のちょっとした歴史も交えてくれる。
当然高校生では楕円軌道の微分積分まで習っていないから、
ニュートンの師匠の面積速度一定の法則から、
ボイジャーの楕円軌道の、地球木星間の移動時間を計算した。
運動方程式は秒単位だから、年に換算する。
打ち上げた年にその年を足すと、今年の西暦になる。
「つまり、今年、ボイジャーは木星につくのです」と締めくくったラストシーンを、
僕はいまだに覚えている。
記号の羅列だった数学が、
急に現実を切り開く道具になる瞬間を見せてくれたのだ。
ところが大学数学では、そのような擬人化に出会うことはなかった。
で、本格的に僕は理系を諦め、物語の世界を目指すことにした。
CGは、どんなにリアルにつくったとしても、
生きていない。
それは、記号だからだ。
生きているとは、物語になっていることを言う。
パンモロは生きていない。死だ。パンチラしそうなことが、物語である。
単なる方程式や記号操作は死だ。それが今の我々に何の物語を生むかだ。
サンタがいないと言い切るのは死だ。そこには荒野と記号しかない。
サンタはいるよ、と言う意味には、複数の意味が重なっている。
我々は物語を食べて生きる生き物だ、という意味と、
そのように生きている人の群れである、という意味だ。
だからサンタはいる。
サンタがいる、というのは、物語がいる、という意味と等しい。
毎年、アメリカ空軍が、サンタの現在位置をレーダーで中継するという。
現代に更新されたサンタの物語を見て、
これを考えた奴の才能に嫉妬したものだ。
高校を卒業して随分になる。古川先生も引退なされただろう。
木星、天王星あたりはホットだったが、それ以外の年は話題に困ったことだろう。
それこそ天文学的な確率で、その話を古川先生がすることができ、
それこそ天文学的な確率で、僕はその瞬間にたちあった。
物語とは、そのような奇跡を描くことだ。
だから、サンタはいる。
2014年04月22日
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