2014年04月23日

脚本添削スペシャル(2)そこに潜む病を自覚する

僕はかつて若者だったし、同世代の書く脚本も沢山見てきました。
学生時代、積極的に関西の自主映画上映会に足を運び、
脚本も含め500は見ていると思います。
そこには、映画作家を目指す者特有の、
精神的特徴(病)といっていいものがあるのだと気づきます。
映画作家だけでなく、作家全員かも知れません。

それは、「普段認められていない俺が、
(この高尚な作品で)認めてもらいたい」
という、無意識です。

外部的特徴が、二点現れやすいです。
・日常描写が多い。
・主人公は駄目人間なのに、無条件に愛されている。
(男の作者の場合ビッグ・マザーが、女の場合ビッグ・ファーザーがいる場合が多い)





日常描写の多さは、「普段認められていない俺」の投影です。
それが何故多く、長くなるかは、
普段認められていない俺を、逐一描写したくなることと、
その世界しか知らない為、別の日常(非日常)を描く
知識、経験、勇気がないからです。


この作品の場合、
異物である河童に出会い、再出発するまで、
全尺約19分(今気づいたけど、15分以内の規定オーバーだった…)
の1/3以上、7分を使っています。
日常が壊れ、異常世界(スペシャルワールド)への、
まだ入り口。
本格的冒険のはじまりである、
第一ターニングポイントが構成上存在しないため、
だらだらと話が続きます。

主人公は、いつ冒険へと「自ら」出るのか、不明。
もし自分を危険に晒す山賊とのバトルがそうだとすると、
それが終わった時点で約11分。半分を過ぎたところ。
ここまでがACT 1だ、と言われれば、おかしいだろそれ、
と誰もが思うはず。

理想的な三幕構成では、ACT 1、2、3の配分は、
1:2:1です。
20分だとしても、5分、10分、5分のバランスがよいでしょう。
前に書きましたが、短編では、1:1:1または2:2:1の序破急型がありえるかも。
としても、6分強、6分強、6分強、か、
8分、8分、4分の構成。

つまり、11分あるここまでを、
長くとも8分、理想は5分にするべきなのです。
ACT 1の役割「日常が異物によって壊れ、冒険へ乗り出す」
までをこの尺にするならば、
日常をそんなに書いている時間はない筈なのです。
にも関わらず、日常描写を多く書くのは何故なのか。

(流れ星を異物とする、という考えならこの議論はまた変わって来ます。
しかし、流れ星が異物なのか、河童が異物なのかは、
このお話の本質、コンセプトが決めることです。
それを端的に表したものがログラインです。
表紙を見てみましょう。
今回の応募では、表紙にログラインを書いてください、
ということにしました。プロ作品では不要です。

「落ちぶれた浪人が、助けた河童と共に流れ星を追い、生きる力を取り戻す」
とあります。異物は、河童と考えるべきでしょう。
ログラインは、このように、自分で作品の本質が見えなくなったときにも、
役に立つのです。俺はこれを書きたかった筈だ、という灯台の役目をするのです)


日常描写の多さは、自分は悪くない、という無意識の言い訳です。
大抵、だらだらした駄目人間の日常です。
「こんな俺を認めてほしい」という無意識が、
俺は悪くない、と無意識に言わせているのです。

だから、大抵そんな日常に、
「とんでもないこと」を起こそうとします。
この場合は、宇宙人との出会いです。
それぐらいしないと、駄目な俺を変えるきっかけにならないからです。
一発逆転症候群、とでも名づけますか。
マイナスが大きいから、ちょっとしたプラスではなく、
ものすごいプラスで逆転したいのです。

分かりやすい例は、アラフォーで婚活しているおばさんたちの、
「ここまで独身だったんだから、結婚するからには、
年収1000万以上でイケメンじゃない限り嫌」という願望です。
ものすごいプラスで、今までのマイナスをペイしたいのです。
それがカタルシスを生むと、勝手に信じているのです。
報われる日が来る、と。

別の人で例えれば、いやいやいや、とツッコミたくなるでしょう。
他人だからです。第三者視点だから言えるのです。

なのに、何故自分はそうツッコミを入れられないのか。
第一者だからです。

度々書いていますが、
第三者視点である映画では、自分を書いてはいけません。

主人公は、ほらさんではありません。
主人公は、第三者の、次郎丸です。
それは、アラフォーおばさんや、俺や、渋谷スクランブルで歩く大量の人と同じ、
他人です。

他人の日常を、そこまで長く見たいとは思わないでしょう。
好きな人は別。でも物語が始まった時点では、
次郎丸は赤の他人。
表の顔(浪人)と、裏の顔(博打ずき)の、
2シーンで十分。
3シーン目で、もう事件が始まるべきです。
流れ星を見る?
いやいやいや、異物との出会い、河童でしょう。
2分1分2分の3シーンぐらいで、5分を目標に書くべきです。
そのシーン終わりは、「一緒に流れ星を探しにいこう」という、
次郎丸の宣言(言い出しっぺになる)であるべきです。



さて、もうひとつの、若手の特徴。

主人公を無条件に愛する、ビッグ・マザーがいること。
このシナリオの場合、おりょうがそれに当たるのは明白です。

これも、同じ潜在願望から出発しています。
もう一度書きますと、
「普段認められていない俺が、
(この高尚な作品で)認めてもらいたい」
願望です。(高尚な、という部分は、一発逆転症候群です)

認めてもらいたいから、認めてもらっている状況を、
無自覚に書いてしまうのです。

ここでも、主人公と作者が分離できていません。
次郎丸は、他人の筈。


試しに、ぼくだとしてみましょう。
仕事へ行くと言っては会社にいかず、
パチンコする。
なのにそれを責めない出来た美人嫁が、
毎日励ましてくれる。
しかも朝まで帰ってこなくても、心配して待ってる美人嫁が、
ぼくにいると仮定してください。

いやいやいや、何でだよ、もっと他にいい男いるだろうよ、
なんでアンタみたいな美人が、
大岡の嫁やってんだよ、なに?よっぽどセックス上手いの?
と、普通は勘ぐるはずです。
つまり、他人ならオカシイと判断出来る筈なのです。

この目が曇るのは、
主人公と作者が、分離できていないからです。

主人公次郎丸は、他人です。
渋谷のスクランブルに歩いている一人です。
平均よりぐうたらでしょう。
美人嫁がいます。
え、なんで?
実は腕っぷしが強く、それに惚れたんです。
なるほど、だから毎朝刀をちゃんと持ってくるのか、
いやまて、それが錆びてることに、
どうして嫁は気づかないの?
白痴なんじゃないの?
おかしくね?


他人だ、と意識する簡単な方法で、
僕はこのように渋谷のスクランブルを歩かせてみます。
学校の教室に座らせても、
電車の向かいの席に座らせても構いません。
次郎丸とおりょうを、手でも繋がせて、
現実空間に持ってくるのです。

僕は時々、外で脚本を書くことがあります。
公園のベンチや、町中のちょっとした座れる所に座って書きます。
それは、今目の前を通る人々の中に、
主人公たちがいることを想像するためです。
作者は、目の前にいる人形を操る、人形使いの側に意識を置くことです。
むしろそれぞれの人形使いをコントロールする、指揮者の立場でも構いません。
人形の中から世界を見てはいけないのです。

「人間の想像力は不思議である。
自分が海岸を見ている夢を見たとして、
砂浜に立っている、自分の後ろ姿を見ることが出来る。
しかしこれは、決して自分では見ることのできない光景の筈なのに」
という話もあるくらいです。

逆に、普段でも、視点が自分の外に出てしまうのが、
他人の目を気にする、という意識でしょう。
子役出身などは、大人の望むことを優先し、
自分の意志が薄弱である人が多いです。
これが病的に進行すると、離人症という精神疾患へ、
さらに進行すると解離性人格障害になります。
(「いけちゃんとぼく」という作品は、子供にとってストレスの多い状況での、
離人症的体感を描こうとしていました。
そのときに、心のバランスを取る作用として現れるのが、
イマジナリー・フレンドという存在です。
離人症的状況、つまりここは俺のいる実感がないという初期状況から、
徐々に世界との噛み合いが生まれて、自分の居場所が出来たとき、
イマジナリー・フレンドは見えなくなります。
僕はそのような話を書こうとしましたが、7割ぐらいまでしかうまく行かなかったです)

人間の能力、自分と他人ということを、
これらの領域を突っ込んで調べて知っておくのも、勉強です。


さて、おりょうの立場からこの話を見てみましょう。

なんで次郎丸に惚れてるの?
他に言い寄る男はいないの? どうやって断るの?
そもそも、家で毎日何してるの?

例えば自分だと思いましょう。
嫁が働いていて、自分は専業主夫である。
いってらっしゃいと送り出すが、
俺が内職で稼いだ、なけなしの種銭を、
今日も嫁は全額博打ですってきた。
ふざけんな嫁!俺が稼ぐから、お前は家で掃除でもしろこのやろう!
となるのが人間です。

そのように感情を出さないのは、
おりょうが人間ではないからです。
ロボットか、妖精のたぐい、つまり、抽象的存在です。
概念です。

映画は、人間と人間のドラマを描くものです。
従って、おりょうはこの場合、
脇役ではなく、端役またはエキストラで充分です。
なんなら、物語上いなくても成立します。
ログラインに再び戻りましょう。
妻とのことは、書いていないです。
なくてもいいのです。




若者が脚本を書くことは、容易ではありません。
そもそも人生で成功してないし、
実力だって経験不足です。
主人公と作者の分離すら、無知だと言えます。
そして、傷つくことに慣れていません。

若いから傷の治りは早い筈です。
なので、今回は手を緩めずに書きました。
同じことがプロの書き手でも存在します。
最悪映画の一本、キャシャーンの桐谷なんかもそうです。
ガッチャマンもかな。
こういうオッサンは手遅れです。死ぬまで無理でしょう。

若者は、傷を負っても回復することが出来ます。

そうやって、高みへの登り方を学んでいくのです。
やり方は簡単です。
痛い経験をつみ、そういうことがあると、知ることです。
今間違ってる、と気づけば、対処することは可能です。
まずは、理解し、自覚することです。



まだまだ、続きます。
ようやく、お話の構成の話が出来そうです。
でも、あれ?この話のテーマって、そもそもなんだっけ。つづく。
posted by おおおかとしひこ at 13:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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