2014年04月24日

脚本添削スペシャル(3)テーマについて考える

つづきです。

はて、何がテーマなのか。
改めてログラインに戻ってみましょう。
(このように、ログラインには、
ズレや歪みをただすための、基準の背骨のような役割が、
執筆者にとっての存在意義です)

「落ちぶれた浪人が、助けた河童と流れ星を追い、生きる力を取り戻す」
でした。
そんな話になってた?
いや、なってなかったよ?


この場合の流れ星とは、
物理的な宇宙船のことも指しますが、
もう少し大きなもの、つまり、
次郎丸にとっての、「希望、夢」のようなものを象徴している、
と読み取ることが出来ます。

さて、これはログラインには不要のものです。
ログラインは、アメリカさんのものなので、
日本語の微妙なニュアンスなどは使えません。
英語的で、徹底的に具体でなければなりません。
(何故かはあとで)

従って、とりあえず具体の「宇宙船」に書き換えてみます。

「落ちぶれた浪人が、助けた河童と宇宙船を追い、生きる力を取り戻す」
少し具体的に本編の絵が浮かぶようになってきました。

ここで疑問。
生きる力を取り戻すって、なんのこと?

あまりにも抽象的。
映像表現というものは、抽象が苦手です。

契約という抽象的約束事を直接描けないから、
契約書にサインをするという具体的表現にします。
数学という抽象を描けないから、
大学教授が、黒板に延々書く絵で具体的表現にします。
愛の表現を、小さな目線や表情ではなく、
花束や指輪などの小道具、抱き締めてぐるぐる回るなどの、
具体的アクションにします。

具体的表現に、抽象を込めるのです。

契約書には、契約事項という抽象が象徴されます。
だから契約書を破る具体的表現は、その抽象内容=契約の否定を意味します。
大学教授が黒板の文字を全て消したら、
その数学は間違っていたことを示します。
花束が枯れた絵は、その愛も枯れたことを示すのです。

全て、象徴表現なのです。
具体で、抽象を表現するのです。


さて、「生きる力を取り戻す」という抽象的なことは、
物語中、何で具体化されているでしょうか。

ないです。

「ああ、これで次郎丸は、生きる力を取り戻したのだ」、
と思える表現は、ないのです。
ラストの表情?否。笑っただけでしょ?
笑うことが、生きる力を取り戻すこと?
それはあまりにも陳腐で幼稚でしょう。
「笑えなかった男」が笑いを取り戻す、というお話ならいざ知らず。
(ふと思い出したのが、ブラックジャックにある、
元親友を手術する話。ゲラと言われた笑う親友の話。タイトル忘れた。
4/24追記。「笑い上戸」というタイトルでした。
笑いについて、これ以上の話でない限り、ぼくは認めません)


つまり、「生きる力を取り戻す」という表現は、
小説ならいざ知らず、
具体をカメラで撮るしかない映像表現では「間違った」表現なのです。
ログラインがアメリカ英語と相性がいいのも、
具体で書く英語表現と相性がいいからです。


もう少し脚本を読み込むと、
「太平の世には殺しの技術は必要ないから、
研究者として生きることが、新しい生き方である」
ということをテーマとして描こうとした気配が残っています。

ところが、その次郎丸の心理的ターニングポイントはどこ?
赤ペンで書いた、「父に相談せねば」と言った箇所、
そこで次郎丸が思っていたことは何?
しかしそれは、父救出バトルの途中、語られることを忘れられたのか、
触れられることはありません。
その象徴的小道具、時計がなんの役割も果たしてないし。
もしこれからはモノヅクリの時代なのだ、という結論にするなら、
「刀を捨て時計をする」という象徴表現にするべき。
そこに至るドラマも、用意されている訳ではありません。



さて、ここで、
モラトリアムという言葉を使うとしましょう。
停止期間や猶予期間、というような意味ですが、
実際の所は、大学生ぐらいの「自分探し状態」を指す言葉として、
日本語では使われます。
(そういえば中田ヒデは自分を探せたのでしょうか)
自分探しは、アホな言葉です。
自分はよその国にはいません。
自分は自分の中にいます。
自分は誰か、は、自分の中にしか答えがないのです。
インドに旅してクスリをやったりしても、
誰かが、「お前の正体は○○だよ」と教えてくれる訳ではありません。

(僕の好きな漫画に中崎タツヤの「じみへん」があります。
工場で刺身にタンポポを乗せるバイトをし続ける男が、
「俺はこんな小さな所で終わる男じゃない。
世界の誰にも負けない才能がある筈だ」と嘆いた所に、
神が現れます。
「おお全知全能の神様! 俺の才能を教えてください!」
「お前の誰にも負けない才能は、刺身にタンポポを乗せる才能じゃ」
「聞きたくなかったあ〜」
というのがあります。自分探しの馬鹿らしさを上手く批評しています)


多くの日本の若者は、モラトリアムを強制的に終わらされます。
就職活動によってです。
つまり、殆どの若者は、自力で俺は○○なのだ、
と答えを得た経験がありません。
どうするかというと、他のやつに言われたことを基準にします。
俺って○○だから、という物言いは、○○というキャラで仲間内に通用している、
という意味で、俺の真の性質は○○である、を意味しません。
時間切れと他者によってしか、自分の核を持っていない人間は、
簡単に権威に騙されます。これが空気の正体です。

だから、このような若者が物語を書くと、
他者による規定で自分を描き、
時間切れで結論に定着します。

この物語もその典型で、おりょうや河童に、
次郎丸はこういう奴だ、と言われ続け、
それを甘受します。
いやそうじゃない本当の俺は、
ということはしません。
(70年代の若者の物語は、いやそうじゃない本当の俺は、でした。
仮面ライダーすら、本郷猛としての俺と、改造人間の俺との間で、
どちらが本当の俺なのか、悩むのです)
そして見事に、「飛び立つタイムリミット」で、
助けた俺、というアイデンティティー的結論がつけられます。


巻き込まれ型が何故多いか、
という問いへの答えがこれです。
つまり、多くの若者は、自分の意志や目標なんて、
なにもないのです。
だから責任なんてのもないのです。矜持がなくプライドしかないのです。

地図なき所に地図をつくりながら、
誰もいない所に、皆の反対を振り切ってでも出発し、
苦労の末、果実を得た経験がないのです。
せいぜい、恋愛でしょう。
だから、恋愛リア充は、脚本なんて書かないのです。
脚本を書く人間は、その代償行為で脚本を書くのです。
そのリアリティーが、
他人に規定され、時間切れで結論に定着、
という程度なのです。


それは、物語ではありません。

物語とは冒険です。
死の危険に立ち向かい、ついに果実を得ることです。
ゲームの世界のような、あらかじめ用意された世界ではなく、
未知のリアル世界の、リアル冒険を描くのです。
(脚本を書きたかったら、まず冒険をせよ、というのはそういうこと)
冒険への武者震いが、
物語へのワクワクなのです。

ストーリーとは、
これまで何度か書いているように、
欠落または渇きのある主人公が、
異物と出会い、内的動機を実現する外的問題にでくわし、
冒険の旅へ出て、外的問題の解決をし、
それが渇きという内的動機を解消すること、
です。

次郎丸の渇きを見てみましょう。
またもログラインに戻ります。
「落ちぶれた浪人が、助けた河童と宇宙船を追い、生きる力を取り戻す」でした。

「落ちぶれた」ことです。

つまり、この物語の結論は、「落ちぶれていないこと」です。

仕官することもそのひとつ。
侍をあきらめ、研究者になることもひとつ。
あるいは、おりょうを食わせる為、博打をあきらめて、
侍の身分を偽り肉体労働の日雇いとして生きていく、
という泥臭い結論が待っていても構いません。
落ちぶれた状態の逆が、結論です。

とりあえず、絵でわかりやすい、
「仕官すること」としてみましょう。

「落ちぶれた浪人が、助けた河童と宇宙船を追い、仕官する」
とログラインは書けることとなります。

ん?仕官する?なんで?
となるでしょう。

つまり、この冒険は、彼の内的動機を実現する冒険に、
なっていないのです。


そこで、敵である先手組を、
札付きの山賊としてみます。
「彼らの首とともに、仕官の道を得る」というラストになるならば、
冒険の結果の結末です。

ログラインを書き換えます。
「落ちぶれた浪人が、助けた河童と(賞金つきの)山賊を倒す」話、
という形になりました。

冒険の主体は、宇宙船を追うというパートになるでしょう。
二人旅ではなく、
常に先手組との先争いになると考えられます。

河童が異物、
第一ターニングポイントは、宇宙船へ向けての出発
(しかし札付きの山賊が追っていることもわかり、
それでも冒険の旅へ出るのか、選択すること)
二幕は彼らとのチェイス、
ここで遅れをとり、
第二ターニングポイントで、藪の中から、
父が縛られているのを見るのです。
多勢に無勢。それでもやるのか、選択が次郎丸につきつけられます。

これなら、なんとかなりそうか。

ここまで考えて、タイトルは「流れ星の侍」でいいのか?
という疑問に至ります。

テーマと内容とタイトルについて、
次回は考えてみましょう。
posted by おおおかとしひこ at 14:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「飛び立つタイムリミット」とはどのような話でしょうか?
探してみたのですが見当たりません。
Posted by kentya at 2015年12月01日 19:16
kentya様コメントありがとうございます。

タイムリミットというのは、
「12時まで三億円用意しろ。さもなくば全員殺す」
という劇的なものではなく、
「三月一杯で、何かしてもしなくても卒業」
みたいな、モラトリアム期の終わりの意味です。

分かりにくくてすいません。

何もしなくても、決められた日が来れば勝手に卒業して、
何かをする機会を失って、
学生の自由時間ハイおしまい、みたいな、
自動的なタイムリミットが(社会システムによって)課せられている。
みたいなことを言おうとしています。

で、
実は流星の侍は、この学生の自由時間的な感覚を反映していて、
宇宙船が飛び立つことが、自動的に来た三月の終わり、
みたいな時計になってるだけなのです。
卒業式に間に合ったセーフ、みたいな感じ。

物語は、因果があることに意味があります。
勝手に来る時計には、意味はありません。

宇宙船が飛び立つことは、
苦労の末勝ち得た、結果であるべきです。
一番大事な果実だからこそ、ビッグビジュアルになるべきだから。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年12月01日 23:38
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