つづきです。
はて、何がテーマなのか。
改めてログラインに戻ってみましょう。
(このように、ログラインには、
ズレや歪みをただすための、基準の背骨のような役割が、
執筆者にとっての存在意義です)
「落ちぶれた浪人が、助けた河童と流れ星を追い、生きる力を取り戻す」
でした。
そんな話になってた?
いや、なってなかったよ?
この場合の流れ星とは、
物理的な宇宙船のことも指しますが、
もう少し大きなもの、つまり、
次郎丸にとっての、「希望、夢」のようなものを象徴している、
と読み取ることが出来ます。
さて、これはログラインには不要のものです。
ログラインは、アメリカさんのものなので、
日本語の微妙なニュアンスなどは使えません。
英語的で、徹底的に具体でなければなりません。
(何故かはあとで)
従って、とりあえず具体の「宇宙船」に書き換えてみます。
「落ちぶれた浪人が、助けた河童と宇宙船を追い、生きる力を取り戻す」
少し具体的に本編の絵が浮かぶようになってきました。
ここで疑問。
生きる力を取り戻すって、なんのこと?
あまりにも抽象的。
映像表現というものは、抽象が苦手です。
契約という抽象的約束事を直接描けないから、
契約書にサインをするという具体的表現にします。
数学という抽象を描けないから、
大学教授が、黒板に延々書く絵で具体的表現にします。
愛の表現を、小さな目線や表情ではなく、
花束や指輪などの小道具、抱き締めてぐるぐる回るなどの、
具体的アクションにします。
具体的表現に、抽象を込めるのです。
契約書には、契約事項という抽象が象徴されます。
だから契約書を破る具体的表現は、その抽象内容=契約の否定を意味します。
大学教授が黒板の文字を全て消したら、
その数学は間違っていたことを示します。
花束が枯れた絵は、その愛も枯れたことを示すのです。
全て、象徴表現なのです。
具体で、抽象を表現するのです。
さて、「生きる力を取り戻す」という抽象的なことは、
物語中、何で具体化されているでしょうか。
ないです。
「ああ、これで次郎丸は、生きる力を取り戻したのだ」、
と思える表現は、ないのです。
ラストの表情?否。笑っただけでしょ?
笑うことが、生きる力を取り戻すこと?
それはあまりにも陳腐で幼稚でしょう。
「笑えなかった男」が笑いを取り戻す、というお話ならいざ知らず。
(ふと思い出したのが、ブラックジャックにある、
元親友を手術する話。ゲラと言われた笑う親友の話。タイトル忘れた。
4/24追記。「笑い上戸」というタイトルでした。
笑いについて、これ以上の話でない限り、ぼくは認めません)
つまり、「生きる力を取り戻す」という表現は、
小説ならいざ知らず、
具体をカメラで撮るしかない映像表現では「間違った」表現なのです。
ログラインがアメリカ英語と相性がいいのも、
具体で書く英語表現と相性がいいからです。
もう少し脚本を読み込むと、
「太平の世には殺しの技術は必要ないから、
研究者として生きることが、新しい生き方である」
ということをテーマとして描こうとした気配が残っています。
ところが、その次郎丸の心理的ターニングポイントはどこ?
赤ペンで書いた、「父に相談せねば」と言った箇所、
そこで次郎丸が思っていたことは何?
しかしそれは、父救出バトルの途中、語られることを忘れられたのか、
触れられることはありません。
その象徴的小道具、時計がなんの役割も果たしてないし。
もしこれからはモノヅクリの時代なのだ、という結論にするなら、
「刀を捨て時計をする」という象徴表現にするべき。
そこに至るドラマも、用意されている訳ではありません。
さて、ここで、
モラトリアムという言葉を使うとしましょう。
停止期間や猶予期間、というような意味ですが、
実際の所は、大学生ぐらいの「自分探し状態」を指す言葉として、
日本語では使われます。
(そういえば中田ヒデは自分を探せたのでしょうか)
自分探しは、アホな言葉です。
自分はよその国にはいません。
自分は自分の中にいます。
自分は誰か、は、自分の中にしか答えがないのです。
インドに旅してクスリをやったりしても、
誰かが、「お前の正体は○○だよ」と教えてくれる訳ではありません。
(僕の好きな漫画に中崎タツヤの「じみへん」があります。
工場で刺身にタンポポを乗せるバイトをし続ける男が、
「俺はこんな小さな所で終わる男じゃない。
世界の誰にも負けない才能がある筈だ」と嘆いた所に、
神が現れます。
「おお全知全能の神様! 俺の才能を教えてください!」
「お前の誰にも負けない才能は、刺身にタンポポを乗せる才能じゃ」
「聞きたくなかったあ〜」
というのがあります。自分探しの馬鹿らしさを上手く批評しています)
多くの日本の若者は、モラトリアムを強制的に終わらされます。
就職活動によってです。
つまり、殆どの若者は、自力で俺は○○なのだ、
と答えを得た経験がありません。
どうするかというと、他のやつに言われたことを基準にします。
俺って○○だから、という物言いは、○○というキャラで仲間内に通用している、
という意味で、俺の真の性質は○○である、を意味しません。
時間切れと他者によってしか、自分の核を持っていない人間は、
簡単に権威に騙されます。これが空気の正体です。
だから、このような若者が物語を書くと、
他者による規定で自分を描き、
時間切れで結論に定着します。
この物語もその典型で、おりょうや河童に、
次郎丸はこういう奴だ、と言われ続け、
それを甘受します。
いやそうじゃない本当の俺は、
ということはしません。
(70年代の若者の物語は、いやそうじゃない本当の俺は、でした。
仮面ライダーすら、本郷猛としての俺と、改造人間の俺との間で、
どちらが本当の俺なのか、悩むのです)
そして見事に、「飛び立つタイムリミット」で、
助けた俺、というアイデンティティー的結論がつけられます。
巻き込まれ型が何故多いか、
という問いへの答えがこれです。
つまり、多くの若者は、自分の意志や目標なんて、
なにもないのです。
だから責任なんてのもないのです。矜持がなくプライドしかないのです。
地図なき所に地図をつくりながら、
誰もいない所に、皆の反対を振り切ってでも出発し、
苦労の末、果実を得た経験がないのです。
せいぜい、恋愛でしょう。
だから、恋愛リア充は、脚本なんて書かないのです。
脚本を書く人間は、その代償行為で脚本を書くのです。
そのリアリティーが、
他人に規定され、時間切れで結論に定着、
という程度なのです。
それは、物語ではありません。
物語とは冒険です。
死の危険に立ち向かい、ついに果実を得ることです。
ゲームの世界のような、あらかじめ用意された世界ではなく、
未知のリアル世界の、リアル冒険を描くのです。
(脚本を書きたかったら、まず冒険をせよ、というのはそういうこと)
冒険への武者震いが、
物語へのワクワクなのです。
ストーリーとは、
これまで何度か書いているように、
欠落または渇きのある主人公が、
異物と出会い、内的動機を実現する外的問題にでくわし、
冒険の旅へ出て、外的問題の解決をし、
それが渇きという内的動機を解消すること、
です。
次郎丸の渇きを見てみましょう。
またもログラインに戻ります。
「落ちぶれた浪人が、助けた河童と宇宙船を追い、生きる力を取り戻す」でした。
「落ちぶれた」ことです。
つまり、この物語の結論は、「落ちぶれていないこと」です。
仕官することもそのひとつ。
侍をあきらめ、研究者になることもひとつ。
あるいは、おりょうを食わせる為、博打をあきらめて、
侍の身分を偽り肉体労働の日雇いとして生きていく、
という泥臭い結論が待っていても構いません。
落ちぶれた状態の逆が、結論です。
とりあえず、絵でわかりやすい、
「仕官すること」としてみましょう。
「落ちぶれた浪人が、助けた河童と宇宙船を追い、仕官する」
とログラインは書けることとなります。
ん?仕官する?なんで?
となるでしょう。
つまり、この冒険は、彼の内的動機を実現する冒険に、
なっていないのです。
そこで、敵である先手組を、
札付きの山賊としてみます。
「彼らの首とともに、仕官の道を得る」というラストになるならば、
冒険の結果の結末です。
ログラインを書き換えます。
「落ちぶれた浪人が、助けた河童と(賞金つきの)山賊を倒す」話、
という形になりました。
冒険の主体は、宇宙船を追うというパートになるでしょう。
二人旅ではなく、
常に先手組との先争いになると考えられます。
河童が異物、
第一ターニングポイントは、宇宙船へ向けての出発
(しかし札付きの山賊が追っていることもわかり、
それでも冒険の旅へ出るのか、選択すること)
二幕は彼らとのチェイス、
ここで遅れをとり、
第二ターニングポイントで、藪の中から、
父が縛られているのを見るのです。
多勢に無勢。それでもやるのか、選択が次郎丸につきつけられます。
これなら、なんとかなりそうか。
ここまで考えて、タイトルは「流れ星の侍」でいいのか?
という疑問に至ります。
テーマと内容とタイトルについて、
次回は考えてみましょう。
2014年04月24日
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探してみたのですが見当たりません。
タイムリミットというのは、
「12時まで三億円用意しろ。さもなくば全員殺す」
という劇的なものではなく、
「三月一杯で、何かしてもしなくても卒業」
みたいな、モラトリアム期の終わりの意味です。
分かりにくくてすいません。
何もしなくても、決められた日が来れば勝手に卒業して、
何かをする機会を失って、
学生の自由時間ハイおしまい、みたいな、
自動的なタイムリミットが(社会システムによって)課せられている。
みたいなことを言おうとしています。
で、
実は流星の侍は、この学生の自由時間的な感覚を反映していて、
宇宙船が飛び立つことが、自動的に来た三月の終わり、
みたいな時計になってるだけなのです。
卒業式に間に合ったセーフ、みたいな感じ。
物語は、因果があることに意味があります。
勝手に来る時計には、意味はありません。
宇宙船が飛び立つことは、
苦労の末勝ち得た、結果であるべきです。
一番大事な果実だからこそ、ビッグビジュアルになるべきだから。