「ねじまき侍」、いかがでしたでしょうか。
名作とは言わないまでも、ホロリとした、
たった一晩の冒険が人を変えるみたいな、
夏休みムービー的な(河童のクゥ、と思ったのもそれに近いか)、
なかなかの佳編になったのでは、と思います。
とくにラストの次郎丸の「むきゅう」はいいですね。
この芝居を撮るために全部があるような。
悲しい芝居でもなく、何かを振り切った芝居でもない、
いいニュアンスの「むきゅう」を撮りたいもの。
いい台本とは、そのように、次の仕事を想像させるものであるべきです。
さて、せっかくなのでいくつか解説を加えていきます。
恐らく、次郎丸と河童の、丁々発止のやりとりが、
楽しく見れたのではないでしょうか。
(もう少し一緒にいたいと、次郎丸も河童も、観客も思う筈です)
しかしこれは、ガワの面白さです。
これを見せているうちに、
本来の話、「次郎丸が居場所を見つける」が進行するようにしてあります。
見る側からすればそう見えますが、
我々書く側からすれば、
練り込んだプロットを、ガワで表現しているだけです。
ガワはいくらでも取り替えがききます。
プロットは、ちょっとでも狂えば話が成立しなくなる、
理屈の糸です。
どんな人物であれ、そのような状況に陥れば、
そのように取らざるを得ない行動を、彼らが取るように、
状況を組んであるのです。
次郎丸や河童が、別の性格だとしても、
やはり同じ行動を取るでしょう。
台詞のディテールは違うけど。
なんなら、同じプロットで、別性格の次郎丸と河童で、
脚本を書くことすら可能です。
中身とガワの話をよく僕はしますが、
中身とは概ねプロットやテーマで、
ガワはキャラの性格やら台詞やら絵の事などです。
中身を練る時間に対して、ガワは一瞬で出来ます。
生意気な子供とでくのぼうの侍との会話は、
一旦決まればいくらでも書けるものです。
(例えば二人に明日の天気を話させる、
ということすら、可能です)
それは、会話とは半ばエチュード(アドリブ)だからです。
脳内で二人で、アドリブで会話させるのを、
我々は記録していくだけでよいのです。
かがり火の絵は印象的ですが、
その場で書いたアドリブです。
ボスの二刀流も、書きながらキャラ立ちが
もうちょい欲しいなと思って書いたアドリブです。
山道→渓流沿い→峠、と次々に場所のビジュアルが変わって行くのも、
同じ場所が続くのはつまらんな、と思って書いたアドリブです。
一方、
ここで何の話をするべきか、
何故この人はこの行動を取るのか(目的や動機はなにか)、
この人の渇きは何か、勇気や行動力はどこから来るのか
(性格ではなく、事情)、
などは、全てプロットに属するものです。
これはアドリブでは書けません。
書けても、大体よれてくるか、しぼんでくるか、矛盾が生じます。
長い嘘を破綻なくつくる才能がない限り。
だから事前に完成させておくのです。
プロット(計画)さえ出来れば、
あとはガワの魅力を描いているだけで、
うまく話は転んでいくのです。
(うまく転んでいくように書く)
この物語のテーマは、居場所探しです。
モラトリアムの話を思い出しましょう。
自分探しではなく、居場所探しとしたのは、
居場所は、具体的だからです。
場末の賭場から、お城という、カメラで撮れるものだからです。
(身なりもそれに合わせて変化する)
具体的小道具でそれを象徴します。
抜けない刀、交換する時計。
映像表現というものは、細かい理屈はうつりません。
それをうつすことで、ズバリとその象徴する意味が分かるように、
組むのです。
キャラ立ちの所で拾った、
山賊に身をやつした元侍、堀部殿のエピソードが、
サブプロットに昇格して、テーマの強化をしています。
(ラッキーでした。ACT 2はそれで豊かになったし)
博打打ちにならなければ、自分もそうなったかも知れない、
「間違った自分」を見ることで、
次郎丸の内面では、人斬りの自分への疑問が生まれます。
刀ではなく時計の結論に、結びつく加速力を得るのです。
ちょうど、堀部殿は、次郎丸のシャドウに当たります。
鏡にうつった自分の影を見て、次郎丸は、
堀部殿でも今の自分でもない、第三の道への渇望を得るのです。
それには刀を捨てて、時計をはめること、
という結論にうまく導くように、
「抜けない刀」を使うのが、この脚本の巧みなところかと。
堀部殿のサブプロットによって、
メインプロットである、次郎丸の転向を、
無理なく進めているのです。
また、巧みなのは、実はファーストシーンの賭場です。
(トップは実景なので、実質2シーン目)
1分半程度のワンシーンで、
次郎丸のだらしなさぶり(日常)、
武士の魂を捨てられないこと(渇きと固着)を、
象徴的に(つまり絵で)示すことに成功しています。
元原稿では10分かかっても得られなかった、
次郎丸のセットアップを、わずか1分半で、
というのは、極めて優秀かと。
思い出しましょう。元原稿では、
いってきます→賭場→流れ星を橋の上で見る
→いってきます→先手組を見る→河童に会う、
という、二日に渡った話なのです。
その間セットアップされた次郎丸は、
ただの「だらしない男」以外の何者でもありませんでした。
(刀を賭けようとし、すんでの所で思いとどまる、
のは僕の創作です)
つまり、この10分近くのセットアップを、
彼の身なりや台詞という、ワンショットで表現しているのです。
それはつまり、初出に仕込む原則から、
初登場シーンです。
これは、元原稿をいくらいじっても出来るリライトではありません。
全体(プロット、テーマ)を創作し、
それに必要な最低限のセットアップは何か、
を逆算して導いています。
(あとはきっと監督が、賭場のディテール、サイコロや集う輩の怪しさや、
その場の雰囲気づくりで、ツカミの映像を作ってくれるでしょう)
あ、そうそう。
元原稿にはちょいちょいあった、
それは監督が決めることで脚本家が決めることではない、
といった類いのディテールを、なるべく減らしておきました、
芝居のニュアンスも、役者の工夫の余地があるようにしてあります。
この辺のさじ加減はキャリアのなせる技ですが、
初心者諸君は、元原稿と最新版での、
ディテールのぼやかし方を比較してみるのもよいかと思います。
あと、やっぱりおりょうは不要でしたね。
全てが終わって、お城に行く朝、
家で見送るワンシーンでも出番を作ろうと思ったのですが、
(そこで竹光を持ってくる場面にしようかと思っていた)
ないほうがリズムがいいので、
なかったことにしました。
解説が長くなったので、
一端つづく、とします。次回こそ最終回。
2014年04月26日
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