元原稿と最新版との比較をしていたら、
ちょっと細かい話もしたくなったので、
おまけということで、書いてみます。
ブックエンドテクニック:
冒頭のシーンとラストシーンで、ブックエンドのように挟み込み、
両者の差異で違いを見せることを、ブックエンドテクニックといいます。
通常、似たような場面(例えば朝出発するなど)
の冒頭とラストで、
微妙な或いは大きな差異をつくり、
それが成長の証であることを見せます。
同じことが起こっても、別のリアクションを見せるようになっていたり。
その変化が、冒険の価値であり、主人公の成長である、
というのを見せるのに都合のいいやり方です。
いわば、使用前と使用後を対比するのです。
元原稿「流星の侍」でも、おりょうとの家の場面がブックエンドになってはいます。
しかし、それは退屈なアクビと、笑顔の対比でしかなく、
冒険の価値を示したほどではありません。
「ねじまき侍」では、場所が違いますが、
意味的にはまさにブックエンドです。
この物語のテーマが、居場所をみつける、なので、
いる場所が変わったことが、使用前/使用後を対比しています。
いる場所は、場末の賭場/お城勤め。
格好も、汚いの/きれいなの。
態度は、刀を捨てきれない/刀は竹光、時計をしている。
などのような、冒険の結果が、
如実に現れた、実に分かりやすいブックエンドです。
映画は、絵で見せられるものは、全て絵で見せるべきです。
抽象的なことを、具体の絵で見せるものです。
次郎丸の成長(山賊退治で仕官する道を得、人切りにすがりつかなくなり、
新しい生き方、研究者をみつけたこと)を、
そのまま絵で、使用前と使用後を対比しているのです。
ロケーション、衣装、小道具、そして表情、
全てカメラで撮れる「絵」です。
これらの要素で、映画はものごとを表現するのです。
三つの選択:
「主人公は、三回、大きな選択をする」で書いたことを検証しましょう。
第一ターニングポイント:
河童を宇宙船まで届け、山賊退治をすること
第二ターニングポイント:
30人からの山賊達の前に姿を晒し、河童を助けようとすること
クライマックス:
刀を河童にあげてしまうこと
第一、第二ターニングポイントでは、
リスクが重要です。
山賊退治は、危険が伴います。
第一ターニングポイントでは、先回りすることでなんとかしようとしていますが、
いくら腕っぷしに自信があっても、命の危険を伴うことは当然。
第二ターニングポイントでは、危険を分かっていても、
行かざるを得ない状況が待っていました。
この危険が重要です。
普通、危険は避けます。
しかし、危険を乗り越える勇気を持つことが人間にはあります。
動機を持った時です。
第一ターニングポイントでは、
そこまで必死ではないかも知れませんが、
危険を承知で、怪我人である河童に親切をし、
そのついでに、士官のチャンスである山賊退治をモチベーションにします。
河童に出会わなければ、一人では行かなかったかも知れません。
河童を無事届ける、という言い訳を得て、
次郎丸は冒険側に足を踏み出します。
リスクとリターンを、天秤にかける。
この瞬間は、第一、第二ターニングポイントの特徴です。
第二ターニングポイントでは、
それを秤にかける間もなく、勝手に足が動いたのでしょう。
河童が直前に、来るなというサインを出したのが憎い演出。
こりゃ、男なら行くしかない場面。
どんなに危険が待とうとも、ここでは選択の余地はない。
行くを選択するしかない。
クライマックスへのお膳立てです。
ラストの選択は、テーマに繋がると書きました。
刀を捨てること、はまさに次郎丸の新しい居場所を見つけたことの、
象徴的表現です。
「俺は新しい生き方を見つけた」と台詞で言わせる野暮は不要です。
これらの三つの選択は、この物語における、
次郎丸のそれぞれの段階での、最大のターニングポイントとなっています。
ターニングポイントは、行動で示すべきです。
だから、無言であるほうが、より上質です。
細かいですが、
刀を渡したあとの、「…」「…」の間の部分は、
とても秀逸だと思います。
言葉にならない思いが、そこに込められているからです。
次郎丸は新しい生き方を見つけたことの誇り、感謝、
河童は助けてくれたことへのお礼、刀を貰ったことの恩、
別れがたい気持ち、会話を続けたいのに、
もう終わらなきゃいけない気持ち。
言葉に敢えてするとこういうことになるでしょうが、
それを無言にすることは、お芝居の大事なところです。
「言葉にならないことを、歌にする」といいます。
「言葉に出来ない」と、小田和正は、「うう、うう、うう」という、
ただの唸りで表現して見せました。
具体的な言葉にならない、複雑な気持ちを表現するのが、
芸術の役目のひとつでもあります。
単なる点の感情ではなく、これまでを踏まえると、
一言では説明出来ない、線の感情。
二人が無言で言葉を探す、この瞬間のために、
これまでの冒険を書いてきたのです。
言葉にならない感情は、どラストにも出てきます。
次郎丸の「むきゅう」。
この芝居は、難しいでしょうか。
いや、これまでの冒険を経さえすれば、
誰もが到達する感情だから、素直に出来ると思います。
「さよなら銀河鉄道999」のラストシーン、
「今万感の思いを込めて汽車はゆく。今万感の思いを込めて汽笛は鳴る」と
ナレーションが入る所が僕は好きです。
物語のラストは、万感の思いを込めて、何かが鳴るのがよいのです。
目的と焦点:
「ねじまき侍」と「流星の侍」の圧倒的な差がここです。
「流星」では、次郎丸の目的は「金目のもの」という、
曖昧模糊としたもので、河童の目的は宇宙船にたどり着くこと、
と一つだけです。
シンプルである、ということも出来ますが、
その割に「流星」は、18.5分。
一方、「ねじまき」は、それより短い15分の尺で、
実にバラエティー豊かに、目的と焦点が交錯してゆきます。
ACT 1
次郎丸:目的がないこと。刀を捨てきれないこと。(内的問題)
流星を見て、金目のものを追うこと。
→山賊退治で仕官すること。
河童:宇宙船へ戻ること。
(居場所がある河童が、はぐれたことを知り、次郎丸は動きます。
これにより、次郎丸は居場所がないことが、逆に察せられます)
ACT 2
河童:地球へきたそもそもの目的が、鉄集め
次郎丸:時計に興味津々
→元侍の山賊を見て、改めて居場所とは何かを考える
→さらわれた河童を追う
→河童を山賊から助けること
河童:父とともに生き延びること
のように、展開に応じて、次々と変化してゆきます。
しかし大目的、山賊退治はぶれないまま。
次郎丸の内的問題「居場所がない」ことは、
山賊退治で仕官すること(大目的)と、
刀を捨てること(冒険で得たこと)で、
具体化されます。
このように、展開に応じて、
細かく焦点を変えて行き、それに応じて小目標や、
更に深い目的に変わっていくことが、
プロの技かと思われます。
問題が深化していく、とでも表現しましょうか。
同じひとつのことを追及しているうちに、
それが刻々と変わっていくのが、
リアルな冒険というものです。
「流星の侍」では、それがずっと曖昧な感じでした。
三幕構成:
それぞれの構成を、時間つきで見てみましょう。
僕はリライトのとき、よくこういう表をつくります。
数字/数字は、そのパートの分数/積算です。
「ねじまき侍」15分
ACT 1: 5分
○賭場 次郎丸の今、刀を捨てきれない 1.5/1.5
○外 流星を見て、追う 0.5/2
○山道 河童に会い、山賊退治を 3/5
ACT 2: 6分
○渓流 時計にくいつく、山賊と闘う
刀が抜けない、元侍がいた 2/7
河童は鉄を集めにきた、時計を貰う約束 1/8
○峠 元侍の名を思い出す、河童さらわれ 2/10
○宇宙船着陸地点 拷問を止めるため、出て行く 1/11
ACT 3: 4分
○宇宙船着陸地点 大立ちまわり 2/13
○朝 時計を貰い、刀をあげる 1/14
○城 士官が叶う 1/15
あらためて見てみると、
時計を貰う約束がミッドポイントに来てますね。
それまでが快進撃だとすると、きちんと後半戦は敗北の文脈になっています。
(ひとつだけ自慢すると、僕は分数を意識して書いてないのですが、
出来上がったものを文字うちしたら15分ちょうどになっていて、
各パートの案配もとてもいいことです)
一方、「流星の侍」はどうでしょう。
三幕構成上の、ACT 1、2、3と呼べるものがありません。
それは、第一ターニングポイント、第二ターニングポイントが、
不明確だからです。
しかし、ステージで区別すると、一応3ブロックに分かれているようです。
「流星の侍」18.5分
第1ブロック:4分 日常
○家 おりょうと刀 1/1
○タイトル 0.5/1.5
○賭場 一文無しに 0.5/2
○橋の上 流星を見た 1/3
○家 流星を探しに出る 1/4
第2ブロック:8分 旅
○山道入口 先手組に先をこされる 0.5/4.5
○山道 謎の声 0.5/5
○茂み 河童と出会う 2/7
○山道 流星で星へ帰ること
山賊退治、抜けない刀
父は戦士から職人になった 5/12
第3ブロック:6.5分 旅の終着駅
○宇宙船着陸地点 作戦会議、時計を報酬に
大立ち回り 5.5/17.5
○家 帰還 1/18.5
この三ブロックは、
なんだかゲームステージのようです。
場所が変わって目先が変わってるだけで、
物語が進んでいるわけではない。
第一ターニングポイント、第二ターニングポイントの不在により、
全シーンが、ゲームステージのように、
攻略的に並べられている印象です。
ゲーム的な理由はもうひとつあって、
それは危険です。
いつまで経っても、後戻り出来そうな感じがするのです。
前に進むしかない、退路を絶たれた感じは、
クライマックスまでないのです。
前に進むしかないのは、
自分が言い出しっぺの責任を取ってないからです。
流星を探しにいくと言ったものの、
それに失敗したら死ぬほどの危険や、
どうしても探しに行きたいほどの乾きが描かれていないのです。
第一ターニングポイントで、
主人公に突きつけられる選択は、シビアです。
この先どちらも地獄である。
進めば死の危険を伴う地獄、
戻れば耐えられぬ日常が延々続く地獄、
どちらを選ぶ?
と、なっていないのです。
ビッグ・マザーであるおりょうが、その癌でしょう。
流星を見つけずに家に帰っても、なんら地獄が続くとは思えないもの。
安心のまま、主人公は冒険に旅立ってはいけないのです。
不安で不安で一杯で旅立つのです。
不安を打ち消すだけの、動機を持って。
人生で、僕はそこまでの冒険を一度だけしたかなあ。
関西で過ごした27年を捨てて、東京に来たときかな。
人生で、そんな不安で不安で動機に満ちた冒険は、
何回もないものです。
でも映画とは、それが毎回あるのです。
自分が危険を犯すのは、出来れば避けたいけど、
他人の冒険なら、いくらでも見たいものです。
映画は、第三者の冒険であり、第一者、すなわち作者を描くものではありません。
だから、主人公にとんでもない危険が降り注ぐことが、
面白いのです。
それを切り抜ける主人公に、拍手をするのです。
「流星の侍」は18.5分、「ねじまき侍」は15分、
という尺の差も注目に値します。
ねじまきの話の密度たるや!
流星は、ねじまきに比べとてもだらだらしています。
(日常描写が長い、危険がないなど)
同じ尺で事件の密度が薄いならいざ知らず、
ねじまきより尺が長いとは。
では、ねじまきは何故そのような密度で書けているのでしょうか。
おりょうを削った分?
いやいや、おりょうを削った分が、大体ふたつの尺の差だったりします。
となると、ねじまきは、やはり話の密度が濃いのです。
数学的に、プロット/分数みたいに数字で示せないのが残念ですが、
手がかりは分数こみでつくったプロット表にあります。
何が起こるのに何分かかっているかを、
比較研究することは、
あなたの脚本執筆において、なんらかの知見を与えるかと思います。
何となく僕が意識していることは、
ひとつのことだけ進行せず、同時進行することを増やすことかな。
「流星」は、ほとんど次郎丸一人の進行ですが、
「ねじまき」は、次郎丸、河童、堀部殿、ボスなど、
多くの人々のドラマが同時進行しているように見えます。
そのへんの差ではないでしょうか。
最後まで読む側も、疲れることと思います。
これまで書いてきたことは、
実は他人の原稿を直すことだけでなく、
自分の原稿を直すことに使えることばかりです。
リライトや、稿を重ねるという行為です。
もしほらさんが、僕と同じくらいリライトの能力や経験があれば、
ねじまき侍に到達することや、それ以上に面白いバージョンへと、
リライト出来た可能性もあるのです。
では、このへんでおしまい。
2014年04月27日
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