ゲーム的、ということをずっと考えていた。
CG多用の作品や、ラノベ的作品は、
いつもビジュアルや設定は面白いものの、
心の深いところに届かないのは何故か、
ずっと言葉にならなかった。
表面だけで深みがない、というのは簡単だが、
その深みとはなんだ、というのが言えなかった。
全てはゲーム的なのだ、というとよいのでは、
と思った。
ゲーム的、というのは、
「アンドゥ可能な世界」「誰かが用意した正解さがし」
の二つを、この場合含もうとしている。
「アンドゥ可能な世界」については、以前も議論した。
詰めれば、死の危険がないこと、に他ならない。
アンドゥ可能な安心がないことが、
現実世界の冒険だ。
死といっても、物理的死ばかりではなく、
社会的生命の死(ここでは生きていけない、立場を失う)、
あるいはそれに類する、後戻り出来ない恐怖のことである。
後戻り出来ないから、怖い。
前に進む恐怖、といってもよい。
それに打ち勝つだけの強いモチベーションと、それは表裏一体だ。
だから、「何となく」を理由にする主人公は、
確実につまらない。
最初は何となくで始めるのは悪くない(観客との距離が近いという意味で)が、
次第にそれは、逼迫した動機になっていることが重要だ。
自分の身を危険に晒すことと、釣り合うだけの大きさが。
つまり、リスクとモチベーションは、同じ大きさで、釣り合う。
その絶対値の大きさが、ドキドキの大きさだ。
(だからハリウッド映画では、しょっちゅう地球消滅の危機が訪れるのだ)
これがゲーム的発想では、死んでもリセットやリスタートがあり得る。
それがないことが、どれだけ怖いことか、想像してみるとよい。
古い話だが、スト2が2本先取なのはおかしい。
体力0なら死ぬか気絶だ。一本勝負だろリアルは。
それで確か一本先取の「リアルな」格闘ゲームが出たが、
ゲームとしてはすぐ死ぬので面白くなかった。
つまり、ゲームとは、「やり直し前提の面白さ」なのだ。
逆に、物語とは、「やり直し出来ない恐怖の面白さ」であることを知るとよい。
ゲームと物語の違いは何ですかと聞かれれば、これが本質だと僕は思う。
(脚本添削スペシャルにおける、「流星の侍」「ねじまき侍」の比較議論を参考されたい)
もうひとつのゲーム的発想は、
世界がデジタル的に用意されているため、
有限個の有意な組み合わせしか、デジタル世界にはないことで、
それは、作者の予め用意した「正解」だということだ。
逆に言えば、攻略とは、
「作者の正解を探すこと」に他ならない。
(ネトゲはやらないので、そこまでは分からない。
いわゆるユーザー一人のゲームを想像している)
更に言えば、
「世界には必ず誰かの用意した正解があり、
それ以外の工夫は無駄なので、
その正解を早く探すこと。
時には自力で探すことより、コピペしてでも探すこと」
という価値観が支配していることになる。
これは、現実世界とは違う。
現実世界には、誰かの用意した正解はない。
あるものの中から、その時々の正解を
(時に完全正解でなかったとしても)作り出すだけだ。
つまり、現実とは、不完全であるし、
作者などいないのだ。
不完全ながらも、その時々の正解を出せばよいのだ。
100点でなくても、60点でも正解の時が現実にはあるものだ。
マニュアル世代やゲーム世代の若者は、
誰かの用意した正解がどこかにあり、
それを見つけてコピペすれば、100点を取れる、
という人生観がある。
それは、現実世界ではない。
自分の中での未熟ながら正解を探し、
その未熟を少しずつ育てる、という人生観では、
恐らくないのだろう。
ゲーム的発想で語られる物語は、
時にCG多用であったり、時にラノベ的であったりする。
それは、アンドゥ可能な安心のもと、
アンドゥ不可能な恐怖を取り除いてある。
誰かの正解を探すだけで、テンプレ以外の正解にたどり着くことはない。
それは、現実世界を舞台にした、実写で撮るべき物語ではない。
かつて、市川準が「最近の若者の書く話はマンガになっちまった」と嘆いた。
僕は「ゲームになっちまった」と嘆くことにしよう。
意味するところは同じで、現実世界と違うメジャールールをベースにしている違和感、
である。
ゲームやマンガばっかに浸っていないで、
現実世界の恐さを知れ。
恐さと同居し続ける精神力、恐さを自力で克服すること、
個人でなく群れで闘うこと、その厄介さと素晴らしさ、
これを知れ。
ゲームやマンガには、そのめんどくささが、
最初からオミットされている。だから逃避先として最適なのだ。
逃避した世界には、残念ながら現実はない。
現実を知るには、現実を生きるしかないのだ。
リア充にしか脚本は書けない、というのは、
現実世界の恐さや克服の仕方を、リア充は独自に開発しているからだ。
書を捨てよ街へ出よう、と寺山修司は言った。
全く同じことを言っているのだが。
我々作家は、現実世界と想像世界を行き来する者である。
両方について詳しくなければならない。
現実の深さ(闇でも、光でも)は、
ゲームのそれとは比較にならない。
やり直しの効かない、正解の決まらない不定世界。
それを知ることだ。
2014年04月28日
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