2014年04月29日

ストーリーとは、オチのことである

と、大胆に言ってみる。
オチだけを抽出して言うのではない。
オチの良いストーリーは、それまでも良く出来ていないとオチないものだ。


どんでん返しオチや、びっくりオチや、不条理オチではなく、
本当に満足したいいオチが、いいストーリーだった証拠だと思う。
奇道のオチは、いいストーリーじゃなかったときの、
誤魔化しの変化球に過ぎない。
だから衝撃のラストとか、読めないオチなどに、
本当は意味などない。
一流の味ではないものに、スパイスや辛味で刺激を足して誤魔化しているに過ぎない。

いいオチとは何だろう。
オチが来ることで、これまでのストーリーの全ての要素が、
意味があったことが分かり、
全てがオチで象徴されるように、一枚の絵に収まることを言うのだと思う。
最初のことも、途中であったことも、
オチが来ることで、意味が確定し、全てが一本に繋がり、
線が点におさまって綺麗に終わることが、
いいオチの条件であるように思う。

脚本添削スペシャルで書いた「ねじまき侍」のオチは、
その条件を満たしていると思う。
名作に到達しているかどうかは諸君の判断に委ねるが、
佳作の域に少なくとも達しているのは、
ひとえにオチの見事さではないかと思う。

オチには、成る程ね、という全てが腑に落ちた感じと、
それが記憶に残るほどのキャッチーさの、
二つが必要であると思う。
名作映画のことを、かつて名画といった。
一幅の絵のようなラストシーンが、その条件であるように思える。
それはつまり、そのストーリーがどのようなオチだったか、
ということだと思う。

「第三の男」「風と共に去りぬ」「北北西に進路を取れ」
「イヴの総て」「サンセット大通り」「お熱いのがお好き」
「情婦」「アパートの鍵、貸します」「現金に体を張れ」「ローマの休日」
「チャイナタウン」「E.T.」「ロッキー」「髪結いの亭主」「汚れた血」
「ルパン三世カリオストロの城」「ブレードランナー(通常公開版)」
「バックドラフト」「ノッティングヒルの恋人」「バタフライエフェクト」
などのクラシックは、全てオチが名画になっていると思う。
そしてオチがストレートにテーマを言わず、
含みを持たせているところが名画の奥ゆかしさだ。
(ロッキーだけが例外的にストレートか)

かつては、そのようなことが映画の大目的だった。
それが上手く行かないときに、
外しやら変化球で、奇道オチが生まれたようなものだ。

近年の映画で、それをきちんと狙っているものが、
減ってきたように感じる。
真の満足、真のオチを、最近見ていない気がする。


オチとは、前ふりの連続が必要だ。
それがオチによって、それまでのものが、
無駄なく一本の糸として存在の意味があったことが、
一気に腑に落ちることだ。
意外性などの逆目ではなく、
順目でテーマのラストピースが埋まることだ。


奇道のオチなど書いていないで、
真っ当にオチできちんと落とす、王道に挑戦してみてはどうだろう。
実はこれを継ぐことが、一番難しくて、一番価値のあることだと思う。

(手前味噌になるけど、ドラマ「風魔の小次郎」のオチは、本当にちゃんとオチた、
綺麗なオチだと思います。だから名作の評価が高いと、個人的に思っています。
いかんせん知名度がないので、隠れ名作なんですが)
posted by おおおかとしひこ at 03:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック