2014年05月11日

「世界観」は物語と真逆の言葉である

ファンタジーなどの現実と遠い世界を舞台にしようが、
(たとえばドラクエの世界観、ラピュタの世界観など)
現実と近いが微妙に異なる世界だろうが、
リアルベースの世界だろうが、
その世界のビジュアルデザインや、
その世界のルールや運行ぶりを、世界観といったりする。
(外国が舞台の作品は、別の世界観に触れることでもある)

このブログを長いこと読んでいれば予想はつくと思うが、
世界観は物語と関係ないどころか、真逆の言葉だ。


何故なら、世界観とは、安定した世界の描写のことだからだ。
「このような世界がある」ということは、
その状態で安定し、変化しないことを意味する。

それは、物語と真逆だ。
物語とは、不安定な状態の継続だからだ。


世界観は、冒険がはじまる前の、
安定した世界について、まず設定される。

事件が起こり、冒険がはじまり、不安定な状態を安定させようとして、
主人公は動き、ついに解決するまでの、
一連の不安定の連続が物語である。

その途中で世界の謎が解けたりして、
初期世界と解釈後の世界も含めて世界観というときもある。
(例:カリオストロの城の世界観は、ゴート札製造や、遺跡が沈んでいることを含むか?)
その次々と世界が広がっていく動きも、
まとめて世界観と言うこともある。


が、それはストーリーの背景である。
前景は、常に主人公を含む登場人物の、
セリフや行動だ。
それには動機があり、内面や過去や予定や秘密(隠蔽)がある。
このあれやこれやの状態変化がストーリーである。
勿論、その世界ならではのルールや常識が、
人物たちの思想や判断に直結している。

世界の存在抜きで登場人物は立つことは、
できないこともない。現実ベースが世界であればよいからだ。
世界観の世界設定だけでは、どこにも物語は生まれない。


設定厨と言う言葉がある。
世界観や設定が好きな人たちだ。
多分、ストーリーが好きではないのかもしれない。
あるいは、「物語とは動きである」で述べたように、
変化する状態を記憶できないのかも知れない。
記憶は、時間軸を持つことができない仮説はすでにのべた。

ストーリーとは、時間のことだ。
それは変化と不安定だ。
安定がなにかで綻び、不安定状態になり、再び安定になるまでだ。
(全く同じには戻らない。何かの変化をする。それがテーマに直結する)
極端にいうと、
冒険の結果、世界が180度変わってしまってもよい。
変化こそが物語だからだ。
だから、世界の変わらない物語は、ストーリーとして弱い。

変化を拒絶するのが世界観である。
その世界観に浸りたい欲望は、変化の拒絶だ。

続編というものは、物語には本来ありえない。
世界観の継続もありえない。
ものすごい冒険であればあるほど、世界は再構築されてしまうからだ。
(だからマトリックス2、3はひっくり返った世界の継続に失敗した)


人間のやることなんて、世界に比べればちっぽけなんですよ、
という考え方があってもいい。
その場合、その人間たちの物語も、ちっぽけなものになることを自覚しよう。


世界観を設定するのは楽しい。味わうのも楽しい。
それは箱庭療法に似ている。
世界を神の視点で見る娯楽であり、なにかを回復させてくれる。
SFやファンタジーはその役目も果たしている。

しかしそれは、変化や不安定という物語の、
真逆であることを分かっておこう。

つまり、プロットとは、世界観と独立して考えるべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック