2014年05月11日

「キャラ設定」も物語と真逆の言葉である

調子に乗って、前の記事にかぶせてみた。
人物の設定だけをしてもそれが物語にならないのは、
これまで散々書いてきている。
静的設定ではなく動的設定も推奨している。


世界観とキャラ設定を決めることは、
背景と人物の集合写真を撮ることと同じだ。
静止した世界を把握しただけで、
物語という動きをとらえたことにはならない。

野球にたとえれば、
世界観が野球のルール、
キャラ設定がプレイヤーのスペックだ。
それらがそろっても、まだ試合ははじまっていない。
試合の展開や結果が、物語である。

たとえ世界観やキャラ設定を細かく決めたとしても、
それは全体の仕事の1/10に過ぎない。

感情移入や、ターニングポイントや、焦点について、
創意工夫が必要だ。動機やコンフリクトについてもだ。
予想と裏切りや秘密や暴露についても考えるべきだ。
そのうえで、物語の骨格、プロットが面白い必要があるのだ。

脚本添削スペシャルでも、先の桃太郎エピソード1にしても、
キャラ設定だけやっても、
何一つ物語は生まれない。

物語とは、動機と行動と結果の連鎖であり、
不安定な異常状態がどこへ向かうかを楽しむことだからだ。

なぜその人はそれをするのか、
その人の目的はなにか、
それで何が起こるのか、
その人以外の他の人についてはどうか、
誰が次に何をどうしてするのか、
この連鎖が面白いのが、
面白い物語である。

そこにキャラ設定と世界観は、入ってなくても面白い物語が書ける。
脚本添削スペシャルでは、
面白いプロットを立ててから、あとづけでキャラを立てることを示した。

動機、行動、結果は、キャラ設定と世界観には入っていない要素だ。



人の記憶は、動きを記憶出来ない、という説をとりあえず出しておく。
ルールとプレイヤーを創造することが脚本家の仕事ではない。
面白い試合展開やクライマックスを考えることが脚本家の主な仕事だ。
posted by おおおかとしひこ at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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