「奇跡の一枚」という言葉がある。
写真一枚なら、レタッチやアングルの工夫も含めいかようにでもなる、
が、いざ動かすと、リアルがばれる、というような意味だ。
素人の写真から芸能人の写真まで、それは何枚もある。
橋本環奈の例の一枚も、奇跡の瞬間の一枚の例だ。
これらから言えることは、
一枚の写真では現実と違う嘘がつける、ということである。
一枚までなら、嘘をつきとおせる。
逆に言えば、動かしてみればその本来の良さが判断出来る、ということだ。
(我々男子は、AVのパッケージや風俗の写真指名でおなじみの現象である)
これは、脚本でも同じである。
世界観の設定や、キャラ設定などの、
「静止画的なもの」については、いくらでも奇跡の一枚を作ることが出来る。
それが面白いかどうかは、動かしてみれば分かる。
事件が起こり、主人公が動き、
関わる人が増え、しゃべりだし、
展開し、解決するまでの、
「実際の動き」が、設定という奇跡の一枚の対義語だ。
逆にいうと、動かしてみるまで、面白いかどうかは判断出来ない。
なぜなら、ムービーとは、動くことだからだ。
「設定」なる奇跡の一枚を撮っただけで、
話をつくった気になってはいけない。
動いてみないと、それが面白い話になっているかは判断出来ない。
ポージングの上手いモデルが、ダンスが上手とは限らない。
一瞬の表情の上手いモデルが、芝居が上手いとは限らない。
モデルから女優への転身の失敗は、ほとんどがこれだ。
逆に、動き(話)は面白いのだが、
写真だとその面白さが伝わらないものがある。
シナリオ重視の、「売りづらい」と言われるタイプの物語だ。
逆に言えば、そこに一枚写真がつけば、「売れる」のである。
角川映画の駄目な人の話をする。
主演の子供のオーディションで、深沢嵐とイケメン、二人が決勝戦で残った。
嵐は、イケメンとはちょっと違うサイバラ漫画の男子(つまり昭和的な)の魅力を持っている。
が、写真(たとえばポスター面)で見た時にイケメンに負けるのはしょうがない。
僕は、写真ではイマイチかも知れないが、動いたら彼の魅力がわかる、
と主張した。
なんとプロデューサーは、「写真でもムービーでも同じ」とのたまった。
芝居は監督がOKを出すものだから、我々は写真でいいほうを選びたいと。
いやいやいや。そんな粒度で主演を考えていいものか。
イケメンは写真ではいいかも知れないが、動く芝居になると嵐が圧倒的にうまい。
その話が、彼らに通用しなかったのだ。
(イケメンの芝居はOKは出せない、と僕が揚げ足をとることで決定がなされた)
動きと写真は全然違うものである。
「奇跡の一枚」ということばはその時なかったので、
今ならそのたとえ話が出来るかも知れないが。
我々は、奇跡の一枚をつくることが仕事ではない。
それは写真家や印刷の専門家の仕事である。
我々は、一枚ではなく、二時間の連続写真を、
二時間の音を、二時間の感情移入を、
二時間の物語を、つくるのが仕事である。
奇跡の一枚?
動かしてみなよ。
馬脚をあらわすか、面白いかの、どちらかだ。
(橋本環奈は、あの一枚とは別の「動き」の魅力で売れていってほしい)
2014年05月15日
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『世界観の設定や、キャラ設定などの、「静止画的なもの」については、いくらでも奇跡の一枚を作ることが出来る。それが面白いかどうかは、動かしてみれば分かる。』
という部分についておもしろく感じたので、もう少し教えていただけないですか?
「静止画的なものでおもしろいと思った設定だったのに、動かしてみたらダメだった」あるいは「静止画的なものではダメだったのに、動かしてみたらすごくよかった」みたいな例で教えていただけると興味深いです。
この話は、どちらかというと経験則です。
沢山の人が集まって企画打ち合わせをすると、
そういう経験を積めますよ。
具体例がちょっと思いつかないのですが、
多くの予告編詐欺は、
奇跡の一枚の設定の典型ではないでしょうか。
「原作○○、主演○○」という外枠設定もそうかも。
個人的経験でいえば、「Zガンダム」でひどい目に会いました。
逆に、予告や設定を見てイマイチかな、と思えても、
実際に良かった例は、
我らがドラマ「風魔の小次郎」をあげておくことにします。
両方良かったのは滅多になく、
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」
「ジュラシック・パーク」などが代表的。
ワンシーンだけ紹介されるととてもおもしろそうなのに、いざ全編見てみると非常につまらない展開が続く……という経験はよくありますね。
あまり普段ドラマを見ませんが、参考に挙げられた大岡さんの「風魔の小次郎」を見てみようと思います。
ご回答ありがとうございました。