おはなしに最低限必要なセットを考えてみよう。
それは物語の本質を考えることだ。
それがなければ、それは「話になっていない」と言える、
おはなしの本質は。
主人公か。感情移入か。テーマか。
僕は、「事件とオチ」であると考える。
第一者とか第三者とか考えず、
おはなしの原型は、
「誰かが誰かに話すこと」だ。
その最も原型は、
「その人が体験したこと」だ。
今日あったこと、こないだあったことを話すことだ。
場所と時間が特定される。
登場人物は、その人と、その他である。
これが最低限要素か。
これはおはなしの「道具立て」だ。
これを使って何かを語るのがおはなしだ。
昨日、学校で、私と先生が。(When、Where、Who)
ここまでを特定して終わっても、それは話したことにならない。
最低限必要なのは、おはなしの「内容」である。
必要なのは、「事件」と「オチ」だ。
事件とは、異常事態のことである。
我々の日常は、一定であるという前提がある。
逆に、色々ある現実を、理解できる一定の日常にすることを、
平和であるという。
異常事態にいる人にとって平和は希求すべき目標だが、
そのような人におはなしは要らない。
多分現実に役に立つ情報のほうが必要だ。
おはなしを要求する人は、平和に慣れて暇になった人だ。
最近変わったことないかな、と思う人だ。
毎日が異常事態なら、こんなことは思わない。
一定の日常に飽きたから、変わったことを知りたいのだ。
しかも、異常事態に巻き込まれるのは避けたい。
平和なところはキープしながら、
異常事態に陥ったその人の話を、わくわくして聞くのである。
その道具は、
「昨日、学校で、私と先生」だとしよう。
「なんか変だと思ったら、先生ヅラ忘れてきたみたいなんだよね」
が事件である。
なんか変なことが事件である。
聞き手は、その事件を楽しみたくて、質問する。
あなただけが気づいたの?
他の人も気づいたの?
黙ってた?
笑いこらえられないよね?
誰もつっこまないの?
事件のディテールを聞きたくなる。
それは、「頭の中で想像する」ためだ。
異常事態を味わい、「自分がその場にいたらどうするか」を考えるためだ。
事態が大体分かってきたら、聞くだろう。
「で、どうなった?」と。
どうなったかが、オチである。
例えば「勇気だして聞いたの。『先生ヅラ忘れてますよ』って。
そしたら『洗濯中』って言われた。洗濯すんのあれ?」にしてみよう。
また、別のオチもありえる。
「先生Bもヅラ忘れててさ、ダブルで廊下歩いてて正視できなかった」
などもある。
後者はほんとにあったことなら凄いことだが、
リアリティーという点ではあり得なさそうな気もする。
つくり話っぽい。
これで分かることは、
事件とオチのペアは複数あり得るということ
(どこがその事件のオチとして相応しいか、ということがあり得る。
つまり、始点は固定だが終点は話者が選ぶということ)、
そのオチで、オチたかどうかという評価が下される、
ということだ。
大爆笑(評価)、マジで?(意外なオチ)、
洗濯するんだそれ(ひとつ賢くなった)、
話を被せてくる(共有)、スマホを見る(不満足)、
などの聞き手のリアクションが、それを評価する。
おはなしと言うのは、たったこれだけが最小要素だと思う。
これがマスと話者になり、
事実に虚構(つくり)が入り込んでフィクションになり、
経験談でなく「誰か別の人」の話になり、
役者による再現となり、
生でなく録画になり、
ホントの場所で本格的にロケした録画になるだけである。
事件とオチが直結していれば短編で、
間に何か挟まって「展開」があるのが長編だ。
感情移入やテーマなどは、そのあとについてくることに過ぎない。
事件とオチ。
それが面白いことが、おはなしに必要だ。
事件の面白さとは、我々の日常が、どのようにひっくり返されるかという面白さだ。
退屈な日常に刺激、というのがおはなしの本質だが、
それがどの方向性でひっくり返されるかかが、事件の面白さだ。
それがどうオチたかは、
それがどう我々の日常に戻ってきたか、という面白さである。
(自然発生的に、それが我々の日常にどんな意味をもたらすか、
という、結論や意味、すなわちテーマが付随する)
ペプシ桃太郎は、事件は面白い。
オチがないから僕は怒っている。
オチてないことに、怒っている。
或いは、
おはなしかと思わせて、おはなしの形になっていないことに、
僕は怒っているのかも知れない。
(「ツインピークス」「エヴァ」「マルホランドドライブ」など、
伏線を解決しない物語は、事件と展開だけがあって、オチがないから
不満なのだ)
事件は、異常事態であればあるほど面白い。
我々の日常の常識が壊されるほど面白い。
安心して楽しめる異常事態なんてあるわけない。
ヤバイから面白いのだ。
それが昨今、各方面から圧力がかかりすぎなのが、
我々ストーリーテラーの首を絞めている。
むしろ僕は、
あれだけ金をかけていいビジュアルつくっときながら、
圧力がかかったかのように最後までいかない感じに、
怒っているのかも知れない。
2014年05月16日
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