2014年05月17日

おはなしの原型4:第三者の内側には入れない

第三者文学では、
視点(カメラ)は登場人物の中に入れない。
その人の内面や感情や思考を覗くことはできない。
が、その人の発言、表情、行動を見ることで、
その人の内面を、こちらが「察する」ことが出来る。

観客は、登場人物の内面を察する。
演者は、外に出すことで察してもらう。
(外人なら特に、演説したり露骨に要求することもある)
話の作者は、このスタイルでしか内面を表現できない。
登場人物の気持ちは、外に出すことで表現する。


逆に言うと、
外に出た表現が、その人の内面を正しく表現している保証はない。
誤解や理解不足、嘘や隠蔽が、常につきまとう。
憶測や推理もつきまとう。
だからこその真実の大事さもつきまとう。

これらの要素は、三人称文学と相性がよい。
秘密や嘘はドラマの蜜である、と以前書いたが、
第三者の内面と外面の差が、これを産み出すのである。

これは逆に、一人称文学では出来ないことだ。
「私」の語りは、基本的に真実を前提にしているからだ。
(この前提を利用した、私=犯人という変形ミステリーもあるぐらいだ)
「自分の体験を聞き手に話す」という最も原始的な原型では、
つまり、秘密や嘘を描くのが困難なのである。

勿論、話者以外の第三者が秘密や嘘を持っていて、
話者が騙される話をすることもある。
が、それは、内面を外面からしか判断できない、
(内面と外面が違いうる)第三者だからだ。



映画は、舞台と同じで、第三者だけでおはなしが語られる。
(ときにナレーターという神視点が登場する。
これは第三者文学の欠点を補うが、多用出来ない)

あくまで他人同士のかかわり合いであり、
外面=内面の保証もない人々である。
この事件とオチのなかで、
一番語って面白い人を一人選ぶ。
その人に注目して事件を追うと、話が面白くなる人物だ。

それを主人公という。

主人公が正義であったり、主人公っぽかったり、
平凡な高校生であったり、
最強である必要性は、ここまでの議論にはない。
作者の投影や、親近感や、共感も必要ない。

どこかの他人の、第三者たちが関わる事件とオチで、
この人に注目して追うと面白い、
という人を中心に話者が語るという原則だけなのだ。


誰の内面にも入れない。
外面(発言、表情、行動)から察するしかない。
最も面白い中心人物付近に視点をおいて、
事件とオチを語る。
没個性でもよい。強烈な個性でもよい。
事件とオチさえ面白くて、それを語るに適切な中心人物であれば。

これが映画の原型の構造である。
あとは、それの膨らんだバリエーションに過ぎないのだ。
posted by おおおかとしひこ at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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