例えば野球の試合を考えよう。
ファウルチップでキャッチャーが後逸したり、
甘い球がきて三遊間ぬいたり、
タッチアップしたら返球が凄く良かったり、
ピッチャーの球が走っていたり、
とにかく、現実の世界で1プレイごとに何かが「起こる」。
机上の空論やバーチャルでない、現実の世界でだ。
ボールは風に流され、土埃は舞い、それでもそれなりに適応して、
プレイは進んでいく。
何かが「起こり」ながら。
物語もおなじである。
何かが「起こる」ことがつづく。
その連鎖が物語だ。
何も起こらないのは、物語ではない。
ただの設定の羅列である。
何かが動くこと、何かが起こることで、
初期設定の変化が起こる。
事件である。
普段なら起こらないように起こらないようにしていることが、
起こるのだ。
対応しなきゃいけなくて動くのだが、
それが第二第三の何かを起こす。
それを利用する輩も現れる。
何も起こらないときにはいなかった人々が、
何かが起こったことで、事件に参加してくるのだ。
その拮抗のバランスが崩れた結果、
また別の何かが起こる。
これ以上何も起こらないようになるまで、これはつづく。
事態を黙って見ていて、収束するまで安全なところにいるか、
事態に関与し、自分の利益や安全の確保に動くかは、
主人公次第だ。
(最初は前者の立場を取るだろうが、
次第に後者になってゆく。
映画では少なくともファーストロール、15分以内に)
物語では、何かが起こる。
一回では終わらずまた何かが起こる。
人々が関わり、また何かが起こる。
その連続だ。
それが起こったことで、事態が決定的になってしまい、
後戻り出来ないことが、何回も起こる。
(ここをプロットポイントまたはターニングポイントという)
何かが起こりつづけ、主人公は自らを守ったり、積極的に解決しなければならない。
後戻りは出来ない。
主人公も何かを起こし、起こっていることが収束するまで、
それに関わることになる。
とにかく何かが起こる。
それに対して何かを起こす。
それに対して何かが起こる。
それに対して何かを起こす。
この反復である。
その終結がオチである。
何も起こらないもの、
起こっても次に何も起こらないもの、
オチのないものは、
物語の部分集合であり、物語ではない。
2014年05月19日
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