2014年05月19日

脚本の面白さは「起こる」こと

例えば野球の試合を考えよう。
ファウルチップでキャッチャーが後逸したり、
甘い球がきて三遊間ぬいたり、
タッチアップしたら返球が凄く良かったり、
ピッチャーの球が走っていたり、
とにかく、現実の世界で1プレイごとに何かが「起こる」。

机上の空論やバーチャルでない、現実の世界でだ。
ボールは風に流され、土埃は舞い、それでもそれなりに適応して、
プレイは進んでいく。
何かが「起こり」ながら。

物語もおなじである。
何かが「起こる」ことがつづく。
その連鎖が物語だ。


何も起こらないのは、物語ではない。
ただの設定の羅列である。
何かが動くこと、何かが起こることで、
初期設定の変化が起こる。
事件である。

普段なら起こらないように起こらないようにしていることが、
起こるのだ。
対応しなきゃいけなくて動くのだが、
それが第二第三の何かを起こす。
それを利用する輩も現れる。
何も起こらないときにはいなかった人々が、
何かが起こったことで、事件に参加してくるのだ。

その拮抗のバランスが崩れた結果、
また別の何かが起こる。

これ以上何も起こらないようになるまで、これはつづく。
事態を黙って見ていて、収束するまで安全なところにいるか、
事態に関与し、自分の利益や安全の確保に動くかは、
主人公次第だ。
(最初は前者の立場を取るだろうが、
次第に後者になってゆく。
映画では少なくともファーストロール、15分以内に)

物語では、何かが起こる。
一回では終わらずまた何かが起こる。
人々が関わり、また何かが起こる。
その連続だ。
それが起こったことで、事態が決定的になってしまい、
後戻り出来ないことが、何回も起こる。
(ここをプロットポイントまたはターニングポイントという)

何かが起こりつづけ、主人公は自らを守ったり、積極的に解決しなければならない。
後戻りは出来ない。
主人公も何かを起こし、起こっていることが収束するまで、
それに関わることになる。


とにかく何かが起こる。
それに対して何かを起こす。
それに対して何かが起こる。
それに対して何かを起こす。

この反復である。
その終結がオチである。


何も起こらないもの、
起こっても次に何も起こらないもの、
オチのないものは、
物語の部分集合であり、物語ではない。
posted by おおおかとしひこ at 10:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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