2014年05月21日

面白いものと面白くないものを、見分けられるか?

正月にやっているスペシャル、「芸能人格付けチェック」などを見ると、
いかに本物とそうでないものを、見分けられないかが露呈する。
どんなにイケテる芸能人だろうが、
本物とそうでないものを見分けられないのは、一流ではない。

見分けるには何が必要だろう。
豊富な知識だろうか。
それも必要だが、僕は主観的評価と客観的評価を、
自分の中で自覚することだと思う。


主観的評価とは、好みのことである。
人それぞれだ。
一定の志向を示す人もいれば、法則性がないときもある。
時間にも左右される。
今ならすごくよくても、5分ずれただけで嫌いになる。
好きと嫌いで表現される。
理性よりも、根源的で動物的感情だから、
一度惚れたものは一生惚れるし、一度嫌いになったら一生嫌いだろう。

料理や女の好みで考えるとわかるだろう。


客観的評価とは、
それが世の中にとって価値があるかどうか、で決まると思う。
それには、歴史的文脈に照らす必要がある。

物凄く面白いものでも、それが過去の名作のパクリなら評価されない。
されるのは、過去のものを越えたときだけだ。
物凄く面白いものでも、過去にもっと面白いものがあれば、
それは評価するべきでない。「届いていない」という点で。
(その過去の名作があまり知られていないときが問題だ)

面白いとか感動するとかは、一見主観的感情であるが、
同時に、同じものを見て多くの人が似た感情を抱くという点で、
客観的感情でもある。
好みだからそれぞれでいいんだよ、というのは、
多くの人に同じ感情を抱かせることの出来ない、
パワーのある作品をつくれない者の言い訳だ。
作品はマスで評価されるのだから、より多くの人に称賛されることが必要だ。

が、それは下手なマーケティングだと、
売れ線を狙うという二番煎じの方法論になってしまう。
新しい、まだ世の中にない、多くの人が心を動かすことをつくるチャンスを奪う。
それは、新しくつくるものを、正しく客観的に評価することが、
マーケティング理論では出来ないからだ。

客観的評価は、
評価する/評価しないの軸で表現される。

一見客観的評価のアカデミー賞が、
政治的なムードで左右される、主観的賞になることはよく知られている。
世界の政治状況に関わるアメリカならではの主観性だ。
それはアメリカにとって客観的評価かも知れないが、
アメリカ以外にとっては評価されないこともあるのに。

カンヌが、これにわざわざカウンターを打つような作品をパルムドールに選びがちなことも、
有名である。綱引きをして、世界のバランスを整えようという意思は評価したいが、
それによって後世その文脈が失われたとき、受賞意図が伝わらないのは問題である。

例えば、「サンセット大通り」は紛れもない傑作であるが、無冠だ。
ハリウッドの内幕に抵触するために嫌われ、
公開年の賞は「イヴの総て」に持っていかれたという内情がある。
この事情を知らずに、受賞という文脈で見たら、前者は見逃す可能性がある。
僕は両方見た限り、
「イヴの総て」のラストは素晴らしいが中盤がだるい。
「サンセット大通り」の情念の深さとどんでんの素晴らしさに軍配が上がると思う。


客観的評価は、つくりかたを知っている者ほど、
詳しく知ることが出来る。

僕は寿司のつくりかたを素人程度にしか知らないから、
旨いかどうかをわかっても、
つくりかたが上手いとか、手を抜いているとか、
今回の出来は微妙、までは分からないだろう。
何がどう違うかは、受け手にいては一生分からない。
つくり手だけが分かることで、上手いか下手かはわかるものだ。

演技が上手いかどうかは、
素人は表情や声の抑揚だけで判断する。
ちょっと玄人になると、
カメレオン的な演技を評価する。
僕らつくり手は、
立ち位置のうまさや、目線の解釈や、声の調子をとくに見る。
演者になると、服をどう文脈に合わせて着こなしているかや、
腹式呼吸かどうか、この姿勢で出しにくい音をちゃんと出しているか、
まで見るらしい。

そこに好みに左右される要素はどんどん存在しなくなる。
上手いか下手か、評価するかしないかの軸だ。



映画は総合芸術だ。
ビジュアル、音、デザイン、話、イベント性など、
様々な要素の複合体である。
僕は主に話とテーマで見るが、
世の中の人は好みの役者が出ているだけで見る人もいる。
それはそれで構わない。
人それぞれの好みは止められない。それはあくまで主観的である。
しかしそれとは別に、評価するかしないかの軸、
客観的評価があることを知っておくべきだ。


面白い/面白くない、の軸は2軸ある。
どの軸で評価しているかが、
この言葉で表現されるため、批評を混乱させるのだ。

好みではないが評価すべきもの、
好みだが苦言を呈すべきもの、
これらを正しく自分のなかで切り分けられない限り、
自分の作品すら、まともに見れていないことになる。
posted by おおおかとしひこ at 11:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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