2014年05月26日

正しい予告と、正しいコンセプト

予告詐欺は昔からあるが、
最近とみに増えてきた気がする。
映画の予告をつくる人達の才能も不足しているのだろうか。

ダメな作品の予告を面白そうにつくるのは、
昔からあった。面白そうなカットを全部繋ぐ方法だ。

最近のダメ予告は、パターンが決まってきた。


キャストの羅列形式だ。

僕は昔から、
「キャストが勢揃いしてこっちを見ている映画のポスターは駄作」
という説をとなえている。
キャストしか売りがなく、内容が面白くないということを、
自ら告白しているようなものだ。

かつて正月映画というジャンルがあった。
正月は家族揃って映画を見るもので、
どの層にも受ける、オールスターキャストが普通だった。
オールスターキャストの豪華さに比して、
内容はたいしたことない。
正月はめでたいから、内容よりも豪華さのほうが尊ばれた。
(正月のテレビ番組がそれを継承している)

キャストの羅列の予告編は、
それと同じである。
内容よりもキャストが売りだと、自ら告白している。
「アウトレイジ」「同2」は、そのような予告編で、
そのような内容だった。
たけしも下らないプログラムピクチャーを撮るようになったなあ、
と感慨深く思ったものだ。


さて、そのような予告ばかりやり過ぎたのか、
本当に面白い作品の予告すら、
その形式でやりやがるようになってきた。
予告とは、作品の面白さのちょいと出しで、楽しみにさせる、
のではなく、
キャストの羅列である、という勘違いが広まっているように見受けられる。
キャストの羅列以外予告のスタイルがない、
という意味にすら取れる。あほか。


正しい予告は、作品のコンセプトの触りだと思う。
それは、作品が、そのコンセプトに従って物凄く面白いときに限る。
それが正しい予告と正しい作品の関係だと思う。

「正しい」例を。
「タイムマシンで過去に戻ったら、両親の出会いの邪魔をして、
母に惚れられてしまった!父と母をくっつけないと、自分が生まれない!」
(バック・トゥ・ザ・フューチャー)
「琥珀の中に閉じ込められた蚊の化石。その体内から恐竜の血を取り出すことに成功。
DNA技術を駆使し、現代に生きた恐竜の公園をつくった!
しかし嵐に見舞われ、その島は人間のコントロールを外れ…」
(ジュラシック・パーク)


脚本を構想するとき、
先に予告編を想像する、という方法論は役に立つ。
予告編は、コンセプトをシンプルに示すべきだし、
作品は、そのコンセプトでまとまるべきだからだ。



さて、昨今の予告編は、
本編とは別の班がつくっていることが殆どだ。
どんなに監督がノーと言っても、
宣伝部で勝手につくった予告が流され、
宣伝部で勝手につくったポスターが貼られることもある。
特に角川宣伝部は、業界内でも評判が悪い。(全てが終わってから知ったことだった)
「いけちゃんとぼく」の予告編は、気にくわない。
僕はネタバレには、常に反対だった。
僕に拒否権や修正権はなかった。
予告と本編の解離は、システムでも起こっている。
posted by おおおかとしひこ at 12:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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