正しい予告には、正しい三幕構造が必要だ。
この話を理解すれば、何故小説や漫画の映画化が上手くいかないか、
脚本論的に言える。
多くの人気小説や漫画は、
必ずしもセンタークエスチョンを肝にしていないからだ。
映画とは、おおむね二時間で、「一気見する」ものである。
その集中を保つだけの面白さがなくてはならない。
それは、散発的なギャグや事件ではなく、
通しの一本の糸が、面白いからこそ集中が行われる。
その一本の糸とは、センタークエスチョンのことだ。
これへの興味と解決を待つことが、観客の集中の根本だ。
感情移入や予測は、よく書けている脚本に、結果的に起こる。
全てはセンタークエスチョンに関係したことが起こる。
サブプロットも、どんでん返しも、感情移入も。
全てはセンタークエスチョンにぶら下がっている、と考えてもよい。
複雑な構造があって、飽きないように工夫をされていても、
全てはセンタークエスチョンという一本の糸の為に存在する。
それは、二時間で一気見する、という映画物語がもつ宿命の構造に由来する、
経験則的結果だと思う。
人が二時間の集中力で、適度に疲労して、楽しめるには、
全てがセンタークエスチョンにぶら下がる構造がちょうどいい、
という経験則的結果だ。
だから、センタークエスチョンが面白くなければならない。
一方、小説や漫画では、
必ずしもそのような構造をしていない。
むしろ、面白いセンタークエスチョンに全てがぶら下がる構造は、
希である。(小説はあまり読まないので推測)
それは、二時間で一気見するものでは、ないからだ。
週刊連載や、巻や章に分けて、集中力を時々に応じて、
切らせて読むものだからだ。
ひとつのセンタークエスチョンを軸に、極度の集中をしないように、
なっているのだ。
漫画「風魔の小次郎」を例にとる。
当初のセンタークエスチョンは、
「部活に潜入している敵の忍び、夜叉一族に負けないよう自軍を勝利に導くこと」
だった。
これが、作品全体のセンタークエスチョンにはならない。
これが作品の全てではないし、強いひとつのセンタークエスチョンではないからだ。
あくまで、「当初の」センタークエスチョンに過ぎない。
案の定、センタークエスチョンは変わる。
夜叉一族とのバトル、飛鳥武蔵とのバトル、
そして風魔一族の登場によって、
「風魔対夜叉の全面戦争」にである。
しかも後半、またもセンタークエスチョンは変わる。
「聖剣を含んだバトル」にだ。
連載漫画は、このように、センタークエスチョンを次々に変えて、
何年もの読者の集中を稼ぐのである。
小説においても同様か、詳しくないので確信はないが、
文字数が倍以上(脚本は4万字強、小説は文庫で10万字から)であることや、
章を立てて、集中力を中断する構成から考えて、
「二時間で一気見する、ひとつのセンタークエスチョンにまつわる構造」
でないことのほうが多いと思う。
逆に、これらの映画化とは、
「面白いひとつのセンタークエスチョンに絞り、
全ての要素をそれにぶら下げること」に他ならない。
それは、作品の構造によっては、
まるまる構造から作り直すことを意味する。
これが、映画の構造として面白いかの保証がないこと、
映画の構造として面白い、ひとつのセンタークエスチョンに絞りきることが出来ないこと、
このふたつが、小説や漫画の映画化の失敗の、
最大の原因だ。
(ネットのアンケートで、原作映画の不満のトップは、
キャスティングだった。イメージに合わないキャストによって、
話がねじ曲げられている、と客も感じている。
が、仮にイメージ通りのキャスティングが出来たとしても、
このような物語上の構造の違いについては、
脚本家以外は議論出来ない。
構造の違う物語が、同じ話だと言えるかどうか、
という高度な議論が必要だからだ)
漫画「いけちゃんとぼく」には、
センタークエスチョンは存在しない。
僕の脚本家としての仕事は、
このエピソード集に面白いセンタークエスチョンを立てて、
全てをその周りにぶら下げることだった。
初稿は上手くいった。
「想像の世界にすぐ逃避する、現実を見れない少年が、
父の死をきっかけに、想像の世界を徐々に捨て、現実への対処をする」
という成長物語だった。
問題は途中の予算削減(1億半削減)で、
脚本のリライトに失敗したことだ。
「想像の世界」をなるべく減らすことが至上命題になりすぎて、
リライトがセンタークエスチョンの変更を迫られていることに、
僕も、プロデューサーも、その上の人々も、
誰一人気づいていなかったのだ。
最終稿のセンタークエスチョンは、「いじめを克服出来るか」という、
平凡なセンタークエスチョンになってしまっていた。
それに僕は薄々気づいていたが、プロデューサー陣は時間もないしこれでいこうと判断した。
その時、理論的に判断できなかったことの悔しさが、
今もこうして僕に脚本論を書かせているのだが。
サイバラ漫画にそもそもセンタークエスチョンなんてない。
あの人は行き当たりばったりで、
数ページをかいているだけだ。
二時間で一気見する集中力の枠としての、
面白いセンタークエスチョンなど、何も知らない。
今後も、主に資金の関係で、
小説や漫画の映画化はなくならない。
構造に注目してほしい。
ひとつの面白いセンタークエスチョンがないものは、
予告で既にわかる。
それがわかり、問いかけるようにつくっていない。
ないからだ。あるいは、分散してしまっているからだ。
だから、
感動とか笑いとかの結果的感情をうたったり、
キャストの羅列に終始するのだ。
2014年05月27日
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