2014年05月27日

正しい予告3

正しい予告には、正しい三幕構造が必要だ。
この話を理解すれば、何故小説や漫画の映画化が上手くいかないか、
脚本論的に言える。

多くの人気小説や漫画は、
必ずしもセンタークエスチョンを肝にしていないからだ。


映画とは、おおむね二時間で、「一気見する」ものである。
その集中を保つだけの面白さがなくてはならない。
それは、散発的なギャグや事件ではなく、
通しの一本の糸が、面白いからこそ集中が行われる。
その一本の糸とは、センタークエスチョンのことだ。
これへの興味と解決を待つことが、観客の集中の根本だ。
感情移入や予測は、よく書けている脚本に、結果的に起こる。

全てはセンタークエスチョンに関係したことが起こる。
サブプロットも、どんでん返しも、感情移入も。
全てはセンタークエスチョンにぶら下がっている、と考えてもよい。
複雑な構造があって、飽きないように工夫をされていても、
全てはセンタークエスチョンという一本の糸の為に存在する。

それは、二時間で一気見する、という映画物語がもつ宿命の構造に由来する、
経験則的結果だと思う。

人が二時間の集中力で、適度に疲労して、楽しめるには、
全てがセンタークエスチョンにぶら下がる構造がちょうどいい、
という経験則的結果だ。
だから、センタークエスチョンが面白くなければならない。



一方、小説や漫画では、
必ずしもそのような構造をしていない。
むしろ、面白いセンタークエスチョンに全てがぶら下がる構造は、
希である。(小説はあまり読まないので推測)
それは、二時間で一気見するものでは、ないからだ。

週刊連載や、巻や章に分けて、集中力を時々に応じて、
切らせて読むものだからだ。
ひとつのセンタークエスチョンを軸に、極度の集中をしないように、
なっているのだ。

漫画「風魔の小次郎」を例にとる。
当初のセンタークエスチョンは、
「部活に潜入している敵の忍び、夜叉一族に負けないよう自軍を勝利に導くこと」
だった。
これが、作品全体のセンタークエスチョンにはならない。
これが作品の全てではないし、強いひとつのセンタークエスチョンではないからだ。
あくまで、「当初の」センタークエスチョンに過ぎない。
案の定、センタークエスチョンは変わる。
夜叉一族とのバトル、飛鳥武蔵とのバトル、
そして風魔一族の登場によって、
「風魔対夜叉の全面戦争」にである。
しかも後半、またもセンタークエスチョンは変わる。
「聖剣を含んだバトル」にだ。

連載漫画は、このように、センタークエスチョンを次々に変えて、
何年もの読者の集中を稼ぐのである。


小説においても同様か、詳しくないので確信はないが、
文字数が倍以上(脚本は4万字強、小説は文庫で10万字から)であることや、
章を立てて、集中力を中断する構成から考えて、
「二時間で一気見する、ひとつのセンタークエスチョンにまつわる構造」
でないことのほうが多いと思う。


逆に、これらの映画化とは、
「面白いひとつのセンタークエスチョンに絞り、
全ての要素をそれにぶら下げること」に他ならない。
それは、作品の構造によっては、
まるまる構造から作り直すことを意味する。
これが、映画の構造として面白いかの保証がないこと、
映画の構造として面白い、ひとつのセンタークエスチョンに絞りきることが出来ないこと、
このふたつが、小説や漫画の映画化の失敗の、
最大の原因だ。

(ネットのアンケートで、原作映画の不満のトップは、
キャスティングだった。イメージに合わないキャストによって、
話がねじ曲げられている、と客も感じている。
が、仮にイメージ通りのキャスティングが出来たとしても、
このような物語上の構造の違いについては、
脚本家以外は議論出来ない。
構造の違う物語が、同じ話だと言えるかどうか、
という高度な議論が必要だからだ)



漫画「いけちゃんとぼく」には、
センタークエスチョンは存在しない。
僕の脚本家としての仕事は、
このエピソード集に面白いセンタークエスチョンを立てて、
全てをその周りにぶら下げることだった。
初稿は上手くいった。
「想像の世界にすぐ逃避する、現実を見れない少年が、
父の死をきっかけに、想像の世界を徐々に捨て、現実への対処をする」
という成長物語だった。
問題は途中の予算削減(1億半削減)で、
脚本のリライトに失敗したことだ。
「想像の世界」をなるべく減らすことが至上命題になりすぎて、
リライトがセンタークエスチョンの変更を迫られていることに、
僕も、プロデューサーも、その上の人々も、
誰一人気づいていなかったのだ。
最終稿のセンタークエスチョンは、「いじめを克服出来るか」という、
平凡なセンタークエスチョンになってしまっていた。
それに僕は薄々気づいていたが、プロデューサー陣は時間もないしこれでいこうと判断した。
その時、理論的に判断できなかったことの悔しさが、
今もこうして僕に脚本論を書かせているのだが。


サイバラ漫画にそもそもセンタークエスチョンなんてない。
あの人は行き当たりばったりで、
数ページをかいているだけだ。
二時間で一気見する集中力の枠としての、
面白いセンタークエスチョンなど、何も知らない。



今後も、主に資金の関係で、
小説や漫画の映画化はなくならない。
構造に注目してほしい。
ひとつの面白いセンタークエスチョンがないものは、
予告で既にわかる。
それがわかり、問いかけるようにつくっていない。
ないからだ。あるいは、分散してしまっているからだ。
だから、
感動とか笑いとかの結果的感情をうたったり、
キャストの羅列に終始するのだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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