2014年06月09日

初心者講座20:プロット研究(アナと雪の女王)

プロットを具体的に研究しよう。
ようやく「アナと雪の女王」を見れた。
旬な題材にしよう。

まず、「アナと雪の女王」のプロットを書き起こそう。
試しに、映画を見たキミも書き起こして見たまえ。
ペラ一枚(400〜1500字程度)で。とても練習になるだろう。

どういうことがプロットか、どういうことがプロットには属さないかを、
キミが把握しているかは、プロットを自分で書き起こしてみると分かる。
以下では、僕が書き起こしたものをもとに議論するので、
僕が何をプロットだと思っているかも明らかになる。
まず自分でプロットをペラ一枚程度で書き起こし、以下を読むとよい。


まずは、作品的な議論から。

「アナと雪の女王」の作品的成功の最大の要因は、
「Let it go」の、階段をかけ上がるような気持ちよさだ。
この楽曲の出来の良さ、力強さ、ビジュアルシーンの美しさが、
決定的にこの映画を特別なものにしている。

その意味するところが、「抑圧からの解放」であることが大きい。
原題が「FROZEN」であることからしても、
凍った心を「溶かすこと」がこの作品のテーマだ。
そのテーマのソング、つまり主題歌が、
「出来がいい」のがこの映画の出来を決定的にしている。
(音楽と映画のマリアージュの好例は、「プリティ・ウーマン」
「ネバーエンディングストーリー」などだろう。
ましてやミュージカル。看板曲は最も大事だ)

アメリカ的な芝居、つまり、感情をこってり盛り込んだ、
AをAで表現する、バタ臭い表現の極致がミュージカルである。
歌は心、気持ちは曲、その300%の表現が実に気持ちいい。
しかもその主題が、
「いい子でいなさい(be a good girl)と抑圧されてきた女の子が、
そうじゃないこれが本当の私、私はこれでいい」という内容。
「必ずしも真実ではないが、真実だと証明して欲しい内容」という、
いいテーマの条件にぴたりとはまる。
ヒットしない筈がない。

もうひとつ特筆的なことは、
「真実の愛」が必ずしも王子のキスではないことだ。
姉妹の愛だって真実の愛になりえる、
この結論は、いかに王子様との愛を夢見て、
現実に傷ついた女子が世の中に沢山いるか、
その現状での反省を踏まえた結論だ。
そのリアリティーも、ラストの気持ち良さに一役買っている。

実際のところ、クリストフとアナはイチャイチャするわけで、
男が要らない訳ではないようだ。
しかし、男=自分の自己実現、というシンデレラ症候群の呪縛からは、
逃れた結論に見える。
おとぎ話といえども、テーマ(=解決の仕方)は現実の鏡である。
今のアメリカは、現実的着地点のリアリティーは、
あの辺だと思うのがよいだろう。(日本もそうかもだが)


伝統的なおとぎ話の枠組みを使いながら、
今の現実に即したテーマをきちんと融合させているところが、
安心と冒険をセットに、ヒットの原因となったことだろう。

雪だるまのオラフ、トナカイのスヴェンをコメディリリーフにする
(召し使い=黒人は、力は強いが知恵が足りなく笑いの対象である、
という伝統的な白人の文化。
ディズニーアニメでは、黒人ではなく「愉快な異形のもの」として描くことで、
深層構造は同じだが、表面的には差別はないふりをする。
その証拠に、異形と白人が婚姻することはない。「ノートルダムの鐘」あたりが分かりやすい。
異形=黒人は、異形同士でコミュニティを形成する。
今回では、オラフとスヴェンが仲良くなる。
そして、コメディリリーフをトリックスターにするのが常道だ。
最後の決戦で、オラフに出番がないのが、伝統的な決着ではなかった所)
という、安定の構造を持つのは流石だ。



では、プロットを書き起こしてみよう。
キミはどのように書いたか、僕の書いたものと比較してみたまえ。


「アナと雪の女王(原題:FROZEN)」プロットかきおこし

主たる感情:抑圧からの解放。
(※ これは原題FROZENに既に暗示されている。凍りついた心を解放すること、
という物語の大きなベクトルの暗示と、ビジュアル上の凍りついた世界を元に戻す、
というベクトルの、二重の意味が重ねられた、すぐれて映画的なタイトルだ。
それに比べ邦題はいかにもディズニー的夢の世界またはフラットなもので、
主題を暗示しきれていない。
「凍りついた城」「閉ざされた城」などと意訳すのはどうだろう)


 とある王国の王女の姉妹、エルサ(姉)とアナ(妹)の話。
 子供のころ、アナはエルサの魔法の力(氷を作りだす)と遊んでいたが、
誤って事故が起こる。王と王妃はエルサの魔法を禁じ、トロールにアナの
魔法に関する記憶を消去させる。エルサは扉の向こうに閉じこもり、魔女
という「本当の姿」を隠しつづけ、アナの誘いをすべて断る。
 王と王妃は船で事故死し、大人になったエルサに、国を挙げた式典、女
王の戴冠式がやってきた。
 アナは久しぶりに扉が開く日を楽しみにしていた。賓客のハンス王子と
恋におち、プロポーズのその日に受ける。エルサ女王に報告しに行くと、
「出会ったその日になんて」と却下。もめる二人。はずみに「魔法」で身
を守るエルサ。大勢の目の前で「真の姿」をさらしてしまった。山へ逃げ
るエルサ。姉を連れ戻すために、アナは単身山へ向かう。

 エルサは一人になる代わりに、魔法の力を開放し、王国が真冬になるほ
ど雪を降らせ、氷の城をつくり閉じこもってしまう。
 おもいがけず雪山登山になってしまったアナは、氷切りのクリストフ
(とトナカイのスヴェン)と出会い、協力をたのむ。雪だるまのオラフも
加わった珍道中は、狼から逃げ、門番のマシュマロンを避け、氷の城のエ
ルサにたどりつく。
 しかしエルサは心を閉ざしたままだ。彼女の放った魔法は、アナの心臓
を貫いてしまう。どんどん体が冷えていくアナ。クリストフはトロールの
元へ連れてゆき、助言を請い、「真の愛こそが魔法を解く」ことを知る。
よし、婚約者ハンス王子の元へ連れて行こうと。
 ハンスと再会するアナ。しかしハンスはアナではなく、王国が目的で、
「真の愛」ではなかったのだ。「真の愛は自分より相手を優先すること」
と聞き、魔法解除はクリストフがふさわしいのではないかとアナは気づく。
 ハンスは大軍を率い、氷の城でエルサを捕まえる。エルサを殺し、アナ
をめとればハンスは王だ。エルサは魔力を開放、嵐をおこして逃げる。

 一件落着と思い帰路に就くクリストフ。しかし城から雪の嵐が起こるの
を目撃。何かが起こったのを察知し、アナを救いに戻る。
 吹雪の中、エルサを殺そうとするハンス。アナは身を挺して姉を守る。
と同時に魔力のせいで氷漬けになってしまう。エルサはアナを抱きしめる。
と、魔法がとけて元に戻る。「真の愛」は、姉妹の愛の力だったのだ。
 悪者たちは捕らえられ、王国に平和が戻った。クリストフの壊れたソリ
を弁償したアナ。二人はキスをする。エルサは、魔法を良きことに使う。
アイススケート場をつくりだし、今日はパーティだ。

(ちなみに、1000文字強)
主な登場人物(アナとエルサ、どちらを一番手とするかが微妙な判断だ)
アナ    妹。活発な少女。
エルサ   姉。魔女であり女王継承者。
クリストフ 一介の氷切り。恋愛は苦手な、ヒーロー。
ハンス   情熱的な南国の王子。偽ヒーロー。

スヴェン  トナカイ。コメディリリーフ。
オラフ   雪だるま。コメディリリーフで、トリックスター。
トロール  老賢者であるが、指導者ではない。





このようにしてプロットに書き起こしてみることで、
この脚本の問題点があぶりだされる。
二点ほど、大きな問題がある。

主人公がアナかエルサか不明で、テーマが一本化されていないという問題と、
消去されたアナの記憶の問題だ。


この映画の感情のピークは、実は「Let it go」の場面だ。
それは第一ターニングポイント直後、第二幕冒頭部であり、
それはエルサの「抑圧からの解放」の場面である。
これが主題とするならば、実はここが実質のクライマックスになってしまう。
クライマックスこそが、
映画内で雌雄を決する、もっとも危険で、もっともテーマを暗示するものでなければ、
映画は最後まで見る意味がない。
アナもしくはエルサの心の抑圧が、
主人公(それはどちらか)の行動によって解放され、
主人公または皆が、主題歌である「Let it go」を高らかにうたって、
はじめてテーマ(主題)と解決が一致するはずだ。
それがずれている。
「真実の愛は、男では必ずしもなかった」ことがアナのテーマ、
「いい子でいて真実の自分を隠すことから解放される」がエルサのテーマだとして、
なおかつ「ダブルヒロイン」だと仮定するならば、
クライマックスではこれらが一度に解決しなければならない。
エルサの解放はよく描けている。絵的にも巨大だし、CGは素晴らしい。
しかし、アナの解放のテーマは、いささかご都合であったようだ。
大人になったアナの、「今日は扉をあける日」のわくわくは、
恋への期待などを表現する、ダイナミックでチャーミングなシーンだったが、
その帰結が「真実の愛は姉妹であった」ということが、
なんらかのカタルシスになりえていないことが、
アナのストーリーラインのもどかしさにつながっている。

これに関連するのが、第二の問題点である、
トロールによる子ども時代の魔法の記憶の消去だ。
これによる疑問はいくつかあって、
女王戴冠式で皆の前で魔法を見せたエルサの魔法を、
アナが初見かどうか、ということ、
(初見なら、ねえさんは魔女だったの!?
というリアクションがあってしかるべきだろう)
トロールとの再会時、アナの記憶消去の件がスルーされたこと、
(おやおやキミはいつぞやの、が全然なかったし)
などだ。

「記憶が戻され、エルサを許す(または忌避する)」という
ストーリーラインがなぜなかったのかが、わからない。
子供のころの失敗が、「姉妹の断絶」という問題の端緒なのだから、
このこじれはじめに戻らなくて、問題が解決したといえるのだろうか。

この問題にもう一度触れ、エルサの思いをアナが理解し、
許す、という物語なくして、姉妹の因縁は解消されないのではないだろうか。
そうでなく、「男より姉妹」という抽象的な図式に逃げているところが、
脚本が甘いと思われる点だ。

「男より姉妹」をうまく描けていたかどうかについては、そこも怪しい。
じゃあクリストフは無視でもいいじゃん、という結論にも至っていないし。


これは、プロット段階ではなく、
おそらくリライトの段階で、いろいろとこじれたものと思われる。
当初は記憶消去の解消もあったのかもしれないが、
それよりも男の件が強くなったりして、話が変わっていったのだろうと予測される。



このように、プロットを書きだすことは、
その物語の背筋がしっかりしているかどうかを見極めることである。

このプロットの上に、脚本が乗っかるからだ。

「アナと雪の女王」という物語は、
ミュージカル的な出来はとてもよい(ガワ)が、
テーマがいまいち昇華しきれていない(本質)、惜しい作品である。
posted by おおおかとしひこ at 20:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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