2014年06月12日

信用させているか

見も知らぬ、多くの人に、初見で、
物語というものは見られる。

誰が初見で見ても、世界に引きずり込み、
満足させるようなものでなければならない。

それには何が必要だろう。
僕は、信用してもらうことだと思う。
観客が、この物語は入り込んでいいんだ、
と信用するに足る何かを、
最初のうちでまず提供する必要があると思うのだ。


大体、物語を最後まで見ることはめんどくさい。
どんなに名作でもだ。
二時間やそれ以上、割かなければならない。
ましてや、糞映画に当たった経験を思い出してみるとよい。
二度とこんな辛い目に会いたくないと思うだろう。
キャシャーンや犬と私の10の約束のような正真正銘の糞映画と、
これから見ようとする作品の何が違うかを、
見終えるまで確定させることはできない。
だとしたら警戒するのは当然だ。


興味ある受けそうなモチーフで誘引することは、
誰でも思いつくやり方だ。
人気俳優や実績のある監督で客を引くのも、伝統的興行のスタイルだ。
しかし、にも関わらず、内容的に惨敗した糞映画なんてのも星の数ほどある。
これらが名作の必要十分条件でないことぐらい、
映画を10年見てればわかるだろう。

それと、今から見ようとする作品の何が違うかを、
見終えるまで確定させることはできない。


僕は、プロットの一行目に書いた映画の最終目的、
「起こすべき主たる感情」を起こすことだと思う。
正確にいうと、これは最終目的だから、
それに関するなにがしかの感情を起こすことだ。
観客側から見れば、序盤のどこかで心が動くこと、だと思う。

コメディなら、最初のギャグが笑えること。
感動ものなら、それを匂わせる状況に同情したりすること。
ミステリーなら、謎かけに対して興味をもつこと。
などなどなど。

そのへんに転がっているつまらない話ではなく、
これはどうやら最後まで見る価値のある、
おもしろい話である、
というその片鱗が、はじまって少なくとも15分までにはなくてはならないと思う。


これはツカミと言われることもあるが、
ただツカみゃあいいだろうと思って、
激しいアクションシーンから入ってびっくりさせたり、
猟奇事件からはじめて度肝を抜いたり、
そんなことをしがちだ。
それは、モチーフで引いているに過ぎない。
その勢いはすぐになくなってしまう。
(うんこ映画「ガッチャマン」のオープニングアクションからの盛り下がりは、
ツカミと本編の関係について、多くの示唆を残すだろう)
それは、テンションが高いと人は疲れてしまうからだ。
そのテンションではじめるなら、
そのテンションが落ちたら、その盛り上がりは終わってしまうのだ。
(「鉄男」「エレクトリックドラゴン80000V」というカルト作品は、
テンションという衝動だけでつくられた作品だ。これですら、
オープニングのツカミからは、テンションが落ちる場面がある。
最近だと「電人ザボーガー」がそうだ。
実はこの映画は、オープニングで既に結論の「主たる感情」が全て表現されてしまった、
魂の失敗作だ。
オープニング開けは、全てのツカミの鬼門である)

間違ったツカミは、
本編と関係ないツカミでツカもうとする。

正しいツカミは、
本編に関係あるツカミをする。
本編とは、起こすべき主たる感情のことである。


この作品が見るべき価値があるかどうか、
序盤で、その感情の片鱗にも至らない場合、
それは詰まらない作品の可能性がある。
つまり、信用してもらえない。

これはラストに○○のような感情に至るお話ではないだろうか、
と序盤で観客が期待出来るなら、
その作品は序盤で信用を勝ち取ったことになる。
(それは説明ではなく、物語として行われていなければならない)
平たくいえば、
笑わせる映画なら笑いを、泣かせる映画なら泣かせを、
初手から出来ていれば、
人は信用してくれるのだ。

それは書き手側から見れば、早々に実力を見せよ、
ということに他ならない。

アナと雪の女王では、
扉に隔絶された姉妹、というファーストロールでの状況で、
我々観客の心を動かすことに成功している。
姉妹どちらの気持ちもわかり、いつか彼女たちが和解して欲しいと願う。
そして、これはこの先に解消されるよい物語、感動ものであることを予感し、
我々は「これは糞映画ではなさそうだ」と警戒を解き、
世界のディテールを楽しもうと、眉の唾を拭うのだ。
(残念ながら、この期待は最終的に全て解消されていないことが、
この映画の欠点である)


開始10分、遅くとも15分。
それまでに、何か心の動くことのない映画は、
大抵糞だ。

初っぱなから、実力を見せよ。
これは、わざわざ手間をかけて見るべき価値のある、
○○という感情が最後にわき起こる、
面白い物語であることに関係する、
ある感情を起こせ。

それがツカミだ。それが、信用されることだ。
そして、最後までその信用と期待を、裏切ってはならない。


(風魔は、1話からかっ飛ばしたギャグで、信用させた。
いけちゃんとぼくでは、序盤で失敗し、眉唾を中盤まで残すこととなった。
脚本添削スペシャル「ねじまき侍」では、ファーストシーンの賭場で、
次郎丸の自暴と刀への拘りという問題を描き、感情移入に足る人物像を提出することで、
物語への信用を獲得している)
posted by おおおかとしひこ at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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