見も知らぬ、多くの人に、初見で、
物語というものは見られる。
誰が初見で見ても、世界に引きずり込み、
満足させるようなものでなければならない。
それには何が必要だろう。
僕は、信用してもらうことだと思う。
観客が、この物語は入り込んでいいんだ、
と信用するに足る何かを、
最初のうちでまず提供する必要があると思うのだ。
大体、物語を最後まで見ることはめんどくさい。
どんなに名作でもだ。
二時間やそれ以上、割かなければならない。
ましてや、糞映画に当たった経験を思い出してみるとよい。
二度とこんな辛い目に会いたくないと思うだろう。
キャシャーンや犬と私の10の約束のような正真正銘の糞映画と、
これから見ようとする作品の何が違うかを、
見終えるまで確定させることはできない。
だとしたら警戒するのは当然だ。
興味ある受けそうなモチーフで誘引することは、
誰でも思いつくやり方だ。
人気俳優や実績のある監督で客を引くのも、伝統的興行のスタイルだ。
しかし、にも関わらず、内容的に惨敗した糞映画なんてのも星の数ほどある。
これらが名作の必要十分条件でないことぐらい、
映画を10年見てればわかるだろう。
それと、今から見ようとする作品の何が違うかを、
見終えるまで確定させることはできない。
僕は、プロットの一行目に書いた映画の最終目的、
「起こすべき主たる感情」を起こすことだと思う。
正確にいうと、これは最終目的だから、
それに関するなにがしかの感情を起こすことだ。
観客側から見れば、序盤のどこかで心が動くこと、だと思う。
コメディなら、最初のギャグが笑えること。
感動ものなら、それを匂わせる状況に同情したりすること。
ミステリーなら、謎かけに対して興味をもつこと。
などなどなど。
そのへんに転がっているつまらない話ではなく、
これはどうやら最後まで見る価値のある、
おもしろい話である、
というその片鱗が、はじまって少なくとも15分までにはなくてはならないと思う。
これはツカミと言われることもあるが、
ただツカみゃあいいだろうと思って、
激しいアクションシーンから入ってびっくりさせたり、
猟奇事件からはじめて度肝を抜いたり、
そんなことをしがちだ。
それは、モチーフで引いているに過ぎない。
その勢いはすぐになくなってしまう。
(うんこ映画「ガッチャマン」のオープニングアクションからの盛り下がりは、
ツカミと本編の関係について、多くの示唆を残すだろう)
それは、テンションが高いと人は疲れてしまうからだ。
そのテンションではじめるなら、
そのテンションが落ちたら、その盛り上がりは終わってしまうのだ。
(「鉄男」「エレクトリックドラゴン80000V」というカルト作品は、
テンションという衝動だけでつくられた作品だ。これですら、
オープニングのツカミからは、テンションが落ちる場面がある。
最近だと「電人ザボーガー」がそうだ。
実はこの映画は、オープニングで既に結論の「主たる感情」が全て表現されてしまった、
魂の失敗作だ。
オープニング開けは、全てのツカミの鬼門である)
間違ったツカミは、
本編と関係ないツカミでツカもうとする。
正しいツカミは、
本編に関係あるツカミをする。
本編とは、起こすべき主たる感情のことである。
この作品が見るべき価値があるかどうか、
序盤で、その感情の片鱗にも至らない場合、
それは詰まらない作品の可能性がある。
つまり、信用してもらえない。
これはラストに○○のような感情に至るお話ではないだろうか、
と序盤で観客が期待出来るなら、
その作品は序盤で信用を勝ち取ったことになる。
(それは説明ではなく、物語として行われていなければならない)
平たくいえば、
笑わせる映画なら笑いを、泣かせる映画なら泣かせを、
初手から出来ていれば、
人は信用してくれるのだ。
それは書き手側から見れば、早々に実力を見せよ、
ということに他ならない。
アナと雪の女王では、
扉に隔絶された姉妹、というファーストロールでの状況で、
我々観客の心を動かすことに成功している。
姉妹どちらの気持ちもわかり、いつか彼女たちが和解して欲しいと願う。
そして、これはこの先に解消されるよい物語、感動ものであることを予感し、
我々は「これは糞映画ではなさそうだ」と警戒を解き、
世界のディテールを楽しもうと、眉の唾を拭うのだ。
(残念ながら、この期待は最終的に全て解消されていないことが、
この映画の欠点である)
開始10分、遅くとも15分。
それまでに、何か心の動くことのない映画は、
大抵糞だ。
初っぱなから、実力を見せよ。
これは、わざわざ手間をかけて見るべき価値のある、
○○という感情が最後にわき起こる、
面白い物語であることに関係する、
ある感情を起こせ。
それがツカミだ。それが、信用されることだ。
そして、最後までその信用と期待を、裏切ってはならない。
(風魔は、1話からかっ飛ばしたギャグで、信用させた。
いけちゃんとぼくでは、序盤で失敗し、眉唾を中盤まで残すこととなった。
脚本添削スペシャル「ねじまき侍」では、ファーストシーンの賭場で、
次郎丸の自暴と刀への拘りという問題を描き、感情移入に足る人物像を提出することで、
物語への信用を獲得している)
2014年06月12日
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