逆に、こういう話はそもそも映画にならない、
という例をあげてみよう。
初心者がここにおちいりがちなのは、
映画物語という形式に慣れていないからだ。
○オチがない話、解決しない話:
ただヘンテコな事件が起きて、
ただ解決する話は、
「まあまあ面白かったけど、で?」という話になる。
ホラーやアクションなどの、ジャンルムービーはそのようなものが多い。
モンスターの造形やアクションの凝り方に注意が行き過ぎて、
「その話がなんだったのか」に答えを持っていないことになりがちだ。
つまりは、テーマの不在である。
二時間もお話に付き合って得るものがないとき、
この言葉が出る。
つまり、映画を観るとき、人は何かを得たいのだ。
ものすごく難しいテーマを毎回用意する必要はない。
「正義は勝つ」「愛には価値がある」程度のテーマでよい。
よくある陳腐なテーマが嫌なら、
「早起きは三文の得」のような諺的なものや、
「嘘ほど見映えがいい」みたいな真実と思いたいものを、
テーマとして据えるといいだろう。
ただ面白いだけの話は、消えてなくなるだけの、
何もなかった二時間だ。
見る前と見たあとで、
観客の人生への見方が何も変わらないのは、
見た意味がないのだ。
また、テーマと関係なく、
切れたオチは重要だ。
もうこれ以上話す必要はないでしょう、
おあとが宜しいようで、というサゲや、
なるほどね、と腑に落ちる結末や、
最後のピースがはまって、全部がひとつのものになった、という印象や、
上手い!と拍手されるオチは、
話の最後に重要だ。
その読後感で、観客はその話から切り離される。
接待でいえば、別れ際の印象である。
そのときの記憶が最後の記憶になる。
そこが上手くいくことが、作品の印象を決定づけるのだ。
解決しない話は、ここでモヤモヤを残したままだ。
続編を匂わすのは、僕はやめた方がいいと思う。
続編もモヤモヤが残り、スッキリしないかも知れないと思われる。
気持ちのいいカタルシスを残した作品が、
続編の権利を得るものと心得るべきである。
それには、完全に、完璧に終わる上手さがいる。
○焦点が途切れるオムニバス:
焦点がちょいちょい変わるのは、
ターニングポイントが上手く機能していれば問題ない。
一本の話を連続して見ているという意識が持続すればよい。
が、焦点がぶつぎれになってしまうダメな映画は、
枚挙に暇がない。
Aの話だと思ってたら、途中からBの話になってしまい、
次はCの話をしていて、で、これは何の話?
というダメパターンだ。
これは、書く者の知的体力が足りないのだ。
Aの話を最後まで展開しきれず、途中で別の話に飛びついているからこうなる。
一見別々の話に見えたA、B、C…が、
見事にひとつの話によりあげられていくのなら、
それは構わない。むしろそれは面白い話だ。
両者の差は、「私は一本の話をしている」という作者の意識だろう。
群像劇やオムニバスは、一本抜こうが足そうが、
本質に違いがない。
両者の差はそこだ。
また、原作ものにありがちなのだが、
ある焦点をクリアしたら、
全く別の焦点になってしまい、話がぶつぎれになることがある。
これは、直接連続しない数話を、考えもせず連続させることで起こる。
映画とは、連続する意識の物語だ。
原作で章が分かれていても、映画は連続する一本だ。
ある焦点は、ターニングポイントで別の焦点になり、
意識の連続性が保たれる。
そのように編集できないのなら、
それは原作のエピソード選定に問題がある。
最近見た例では、「変態仮面」がその愚を犯していた。
原作は週間連載の一話完結のコントだ。
それを「一本の話」にするには、
それらのネタを繋げるだけでは成立しないのだ。
勿論、「いけちゃんとぼく」の失敗した第一幕でも、
同じ失敗をしている。
だからこの失敗は、痛いほど見えてしまう。
原作者サイバラは、一本の連続する話として、原作漫画を描いていない。
それを、別軸から、一本の話にしなければ、映画にはなり得ないのだ。
○あなたの独自体験談や、
あなたの独特の主張や考え方:
作家的視点として重要で、小説では最も大事かも知れない。
が、それは一人称視点文学だからである。
あなたの体験は、三人称的に見て、
たいしたことないかも知れない。
たとえば、好きな子を前に告白できない体験は、
当事者には天地を揺るがす一大事だが、
三人称的に見れば、ただうつむく男の長回しだ。
「俺的に凄い体験」は、みんな的に凄い体験とは限らない。
ゲームは、実は三人称的文学の「みんな的に凄い体験」を、
「俺的に凄い体験」という一人称に先祖帰りさせた娯楽である。
どんなに凄い体験でも、それは一回限りの一人称的視点の体験にすぎず、
普遍性や誰もが納得することが必要な、三人称視点ではない。
映画「ファイナルファンタジー」の大コケは、
これを分かっていなかった監督や、チーム全体の責任だ。
あるいは、一人称小説の映画化には、
常にこの問題が出るだろう。
村上春樹の名作(かどうか読んでいないのでアレだが)を
映画にした「ノルウェイの森」を見よ。
(6/17塩パワーさんの指摘により作者訂正しました、ご指摘ありがとうございます)
いかに、個人の思い込みが三人称視点で晒されると、
恥ずかしいものであるかを。
それは、オナニーを三人称視点で撮ることに似ている。
この手の問題点は、
作者が「自分の全能感を作品内で実現したい」という
願望を作品内でやってしまうことにある。
「自分はえらい、だからそれをここで示したい、
ふだん抑圧されている姿ではなく、真の姿をここで出したい」
という欲望はそもそも芸術の創作のモチベーションであるから、
全否定は出来ない。
が、それをそのまんまやってしまうと非常に幼稚な作品になってしまう。
「キャシャーン」の幼い演説を見よ。
それは端から見れば、とても幼い全能感なのだ。
その全能感は、AをAで表現するのではなく、
AをBで表現するようなものになっていると、
心地よいものになるだろう。
それには、客観性(それを娯楽として三人称に練り上げる力)と、
自分の抑圧の解放とを、自覚的に両立させるだけの実力が必要になる。
「アナと雪の女王」のハイライト、「Let it go」の場面は、
抑圧の解放であり、だから多くの人が共鳴した。
しかし、よくよく歌詞を見ると、非常に幼いオナニーをしている。
ところが物語的な仕掛け
(アナとエルサの子供の頃の確執→扉を閉ざす悲しみ、
戴冠式で魔力をばれないようにするサスペンス)
があるおかげで、このシーンが「その」抑圧を解放するように見えている。
だから、観客は安心して抑圧の解放を楽しむことが出来るのだ。
(この映画の問題点は、ここがピークに、主題になってしまったことだろう。
問題の解決は、ほとんどここで終わってしまっている。
あとは抑圧の解放の「掃除をすること」が目的になってしまっている。
それはオナニー後のティッシュの後始末のようだ)
○一人しか出ない話、主人公が人間ではない話:
長編がこのようになることはないが、短編ではありがちだ。
それなりに面白い話は、必ず複数の人間が絡み、もめる(コンフリクト)。
その解決を描く。
一人の話ではそれを描けず、一方的なオナニーになるおそれがある。
ものごとを別の立場から見ることの訓練を怠ると、
一方的な主人公のご都合の話になってしまうだろう。
主人公が人間でない話は、短編に傑作が多い。
ピノキオや人魚姫など、異人が人間になる話などはその典型だ。
さるかに合戦や花さかじいさんなどの昔話も、
非人間を主人公や登場人物に配し、戯画化に成功している。
戯画が持つのは、短編までだ。
長編は、人間のとある特徴を増幅した戯画化よりも、
もっと奥の人間とは何かを扱う。
ティム・バートン版バットマンの敵、
ジョーカーやペンギンマンは、
短編ならおそろしく面白い話になるだろう。
しかし、長編映画としては微妙な出来になってしまった。
逆に、非人間型の主人公の傑作は、
ウルトラマンやウルトラセブンや初期仮面ライダーなどの、
30分番組にこそあるのではないだろうか。
○大嘘がいくつもありすぎる話:
最初の設定以上の嘘が途中で出てくる話は、つまらない。
あとづけかよ!と文句を言いたくなる。
最初からそのあとづけが面白いように話が組んであることはなく、
書いてる途中で困ったので、それを打開しようとしただけだ。
その手抜きは、観客にばれるものである。
週刊連載のような、締め切りに追われてやむなく出すのなら、
まあしょうがないと思われるかも知れない。
が、映画とはそれよりも格の高い「完璧な脚本」でない限り、
おもしろがられることはない。
大嘘は最初にひとつ。すべてはそこから派生、類推出来るようにしておくのが原則だ。
○設定倒れで、ドラマが面白くない話:
これについては、このブログでよく語っているので、
今更、ではなかろうか。
設定だけ見せたペプシ桃太郎CMが、
エピソード1の宮本武蔵の「話」になった瞬間、とても詰まらなくなったのは、
設定倒れだった、という馬脚を現したに過ぎない。
どうしたら設定倒れを防げるのか。
前に論じたように、
設定が20カットなら残りは680カットだ。
それだけの労力を、残りにかけることだ。
先は長い。
たかが設定だけで満足しているから、あなたはいつまでたっても面白い話がかけないのだ。
むしろ、面白い話のために、設定を逆算してつくるのがよい。
映画は、世の中にある面白い話のすべてを表現出来ない。
それを分かるか分かっていないかは、初心者のころは分からない。
あなたが書く物語が面白くないのは、
そもそも映画形式にふさわしくない話を書いている可能性もある。
2014年06月16日
この記事へのトラックバック
頑張ったと思ってます。
特にウォーリーは喋れない主人公で良くあそこまで描いたな、と感動しました。
やはり無理があったのか、後半は人間に主人公をバトンタッチしてしまいますが、
イヴァについては、深いところを描いてます。
「ノルウェイの森」の執筆者は村上龍ではなく村上春樹です。
「ノルウェイの森」は小説ではなく詩だと理解しています。
同じ様な作品で映画化されたのは「冷静と情熱のあいだ」があります。
映画版は見ていないのですが、この映画は大岡さんの目から見てどうだったのでしょうか。
映画にならない話について、「Save the catの法則」 のジャンル分けを思い出しました。
コメディ、やロマンティック、というジャンルはストーリーの本質を押さえていない、ということです。
「コメディ映画だから、ちゃんとした物語は必要ない」
と考えてしまう人がいるようですが、
「コメディ」や「派手なアクションのバトル」は
単に物語を彩る上のスパイスで、
物語そのものではない、といことを忘れてしまうことが原因のようです。
短編ではギャグのみのストーリーが許されますが、
二時間かけてみたものが、笑わせるためのオチだったら、悲しくなりますもの。
一連のブログを読んで、それを物語にするのが、
主たる感情やテーマなのかな、と思いました。
春樹でしたね。訂正しておきました。
ウォーリーやモンスターズインクは、非人間の形式を借りた、
もはや人間の話だと認識しています。
感情も判断も行動も、人間のそれだと思います。
(余談ですが、サイレント映画をちゃんと見てたら、
台詞なしの芝居には驚きません。
映画とは、台詞がなくてもあれくらいは雄弁なものです。
逆にト書きだけであれぐらい書けるべきです。
あのチャレンジが素晴らしいことに異論はないですが)
コミュ障気味の作者は、ロボットなどの非人間を主人公にすることが多いと思います。
真剣に非人間の話ではなく、人間の代替物としてのロボットなどの話、と考えるとよいかと。
(僕が想定してたのは、もっと非人間の主人公話でした。
うんこ映画ガッチャマンのケンは、人間の形をしてるけど、実質意思のないロボット役でしたね)
ブレイク・シュナイダーのジャンル論はとても面白いですが、
西洋の母型物語の知識がないときちんと理解出来ない気がして、本気の分析はいつも躊躇しています。
僕ら日本人がもつ物語の基本型のセットと、違うような気がしてます。(クレヨンの基本色が違うように)
問題と解決のセット、ないし解決のパターンが、ジャンルを決めているような気がしてるのですが、
ここはまだ研究途上です。
主たる感情は、大爆笑でもいいと思います。
「少林サッカー」のラストなんて、大爆笑しながらホロリとしたもの。
大爆笑しながらも、「少林拳は素晴らしい」が一応テーマとして貫かれているから、あのラストに納得がいくのだと思います。
「冷静と情熱の間」は、多分見ることはないと思います。
おそらく小説の出来がよく、映画の出来が悪い例かと思われますが。
(小説に関しては、僕はあまり小説を読まないので、的を外して言っている可能性はあります)
あれだけの簡素なシステムで、あれだけ豊かな感情表現をするなんて!
脚本家は「ウォーリーは夕日を見て悲しみを耐える」とか書いたんでしょうか。興味深いです。
サイレント映画は見たことが無いので良いのを探してみます。
少林サッカーですね、もう一度見てみようかと思います。
脚本間にとって必要なジャンル論は、物語の捉え方によって変わってくるのかもしれませんね。
たとえば「バディとの友情」は
最初お互いを嫌っているが、旅をしていくうちに相手の存在が必要で、
二人そろって初めて一つの完結した存在になることがわかってくる。
そうは気付いても、こいつがいなきゃダメだ、なんてたまったもんじゃない!
というのは一見当たり前のようですが、見逃しがちなことなので
自分にとっては、こういったツールがあるんだな、という気持ちでした。
「冷静と情熱の間」は小説としてはひどい出来です。
85ページできっかけとなる事件が起きて
180ページでようやく物語が動き始めます。
それまではずっとお洒落なイタリアで素敵な彼氏とSEXしながら酒を飲んでます。
実際にamazonレビューでも評価3.5。絵やアクション、演技で誤魔化せない分、読者は正直です。
一方で、文体にころっと騙されたりするのが小説ファンですが、
詩としては良くできていても、小説としては良くできていないといえると思います。
映画版は話題になっていましたし、良い出来なのかと思ったのですが、良くないのですね。
これをどうやって映画化したのか、というのが疑問だったのですが、失礼しました。
話は戻りますが、非人間でも人間を描いていて自分のバイブルになっているもののひとつに
長編小説「猫の地球儀」
があります。映画的な話だとも思うので、
良ければ読んでみてください。
自分が人間以外が主人公でも、名作あるじゃん!
と思ったのは、小説好きだからなのかもしれません。
小説では人間以外にも精神を記述できる。
台詞だけで語ってもおかしくない。
という二点で小説は非人間で人間を表現するのが得意なんだと思います。
映画では表情があれば人間を記述できますね。
話の趣旨から外れてしまいますが、SF映画では人間らしい非人間は結構出てきます。
ターミネーター2や、エイリアン2に出てたアンドロイド
フィフスエレメントの異星人なんかは印象に残ってます。
見た目の非人間の話ではありません。
ロボットだろうがエイリアンだろうが猫だろうが、
「芝居ができる」のであれば、それは人間とみなすべきです。
かつてラッシーという名作がありました。マリリンに会いたいなんてのもありました(リアルタイムで見て以来見てないので、今でも傑作かどうかは不明)。
犬や猫は、映画で主役を張ることが可能です。
それは、「誰かに会いに行く」という目的と動機を持った行動であり、感情を外から見れる以上、人間の芝居と同等です。
小説では、厳密な三人称型で書く必要がありません。
猫でも石でも死体でも主人公にできるし、「主人公が問題を解決する」必要もないでしょう。それは映画にならないジャンルの話です。
ちなみに「夕日を見て哀しむ」は一人称表現です。
「夕日を見る」が客観的三人称的表現。
哀しいのだな、と判断するのは、文脈から推測する我々です。そのように文脈を組んでいることに注目すべきです。
簡素な表現は芝居に制限があるだけで、そこに感情を読み取るのは我々です。
クレショフのモンタージュ実験でググって下さい。
どんなカットがリアクションカットに来ても、感度のいい芝居に「見える(我々が読み取る)」のです。
全てはモンタージュという、カット割りで文脈をつくることなのです。
ターミネーターは、ロボットを通じて人間を描いています。
A(人間)を描くのにB(非人間)を使う表現です。
従って、ロボットが人間らしい振る舞いをし、本来の人間が人間らしくないのは、この前提では当たり前なのです。
特にT2では、親代わりの人間性を発揮していました。母のサラが親としての人間性の欠如に対して、
ロボットが人間性を表現します。
ターミネーターが人間だったら、これはたいして面白くない話でしょう。
ロボット(SF以前は人形)というモチーフは、人間とは何かを描く道具として優秀です。
逆に、人間の俳優を使っていても人間の役でないうんこは沢山あります。
この話をしだすと、じゃ人間って何?って話になるので、深入りはやめておきます。
いずれにせよ、非人間の見た目(ロボット、エイリアン、幽霊、猫、人魚、改造人間など)で「人間」を描くのは、それほど珍しいことではないでしょう。名作も多いと思います。
非人間を出してほんとに非人間だったら、映画としては詰まらない。
これが小説(短編)ならなんとかなる、というのが本文の趣旨です。
モンタージュ実験は知ってましたが、カット割や脚本が演技を引き出すって意味が
身になっていなかったようです。
役者が人間じゃなかったから、逆に演技に注目しちゃったのかもしれません。
なるほど、だからターミネーターってのは良いモチーフなんですね。
そういえば「冷静と情熱のあいだ」でも人間とは思えないような不自然なキャラクタいました。
うんこでした。