2014年06月16日

オープニング

映画のオープニングは、
たいてい何でもワクワクする。
これから一体どんな世界へ連れてってくれるのだろうという期待が、
マックスになっている。

しかし、大抵それは裏切られて、ダメになってゆく。
オープニングの期待にきちんと答える名作と、
それは何が違うのだろうか。


最初は、感情移入も何もない、
フラットな状態からはじまるものだ。
それが感情移入側へかたむく初手が、オープニングの役割だ。

よくあるものは、
・イメージ的なものからはじめ、背景に浸らせてから事件をはじめる
・いきなり興味ある事件を起こし、そこに主人公を関連させて行く
・主人公の近辺からはじめ、そこに事件が起こる
・本編に関連の深い、過去の事件からはじめる
などである。

このうち2と4は、主人公が最初から出ず、オープニングあけに登場する。
このとき、主人公そのものには大きな事情がないことが肝心だ。
主人公より、事件が焦点だからだ。

1と3のパターンは、主人公とその周辺が焦点となる。
事情を抱えた主人公を描いてから、事件を起こす。
だから、第一歩の噛み合いがやりやすい。
このパターンは近年減ってきている。
立ち上がりが緩やかなため、
ツカミのパンチが足りないのではないか、という恐怖心があるように感じる。


オープニングは、最終的に何を描くかで決めなければならない。

主人公を描くのなら主人公から、
事件を描くのなら事件からやるべきだ。

主人公を描く映画なのに事件からはじめると、
オープニングの事件直後に、主人公のセットアップをする羽目になる。
そうしている間にテンションが下がり、
最初の事件の面白さなどどこかに行ってしまう。
オープニングを間違った例である。
(うんこ映画ガッチャマンはこの典型だ)

事件を描く映画なのに主人公からはじめると、
あとで使いもしない主人公の何かを描くか、
なんの面白味もない主人公の日常を見させられる羽目になる。


オープニングは、
あなたの天才的な思いつきの披露の場ではない。

素晴らしいオープニングを思いついて、脚本的な何かを書き始めることは、
初心者のうちにはよくあることだ。
これが映画全体のイメージとなって、最後まで書けることはまれにあるので、
全否定はしないが、
99%ぐらいの確率で、オープニングから書き始めた脚本は挫折する。
それは、全体をまだつくっていないうちに書き始めるからだ。

あとあと何が来るか、
すべて分かったうえで、最適な、寄り道のない、無駄のない、
それでいて魅力的な導入を、「あとから」つくるのがベストである。
そのときまで、天才的なヒラメキはとっておこう。


名作は、次を理解する為の最低限のものから導入をはじめる。
そして、観客の感情や興味をそこに誘導することからはじめる。
そこでいったん掴んだのなら、その感情を離さないように、
焦点をしぼり、ターニングポイントで展開するようにする。

無駄がないように、無意識的に誘導しているから、
脚本家でない限り、それが優秀なオープニングであることを見抜くことは難しい。


たとえば、「X-MENフューチャー&パスト」のオープニングは、
金をかけてすごいCGを使っていても、なお本編の感情には誘導出来ていない。
DNAの流れるオープニングクレジット、Xのドアが閉まるいつものオープニングの復活でも、
それは観客が持つ主たる感情への誘導ではない。
主役のウルヴァリン(またはプロフェッサーとマグニートー)への感情移入に至るには、
あと15分以上かかるだろう。
これは名作のオープニングではない。

「ロッキー」のオープニングは、
暗い地下ボクシングで絵的な興味をもたせたあと、
すぐに彼のギャラがピンハネされまくっていることに、
ロッキー本人も観客も同じ傷ついた感情を持つ。
感情移入の初手が、巧みに行われている良い例だ。
ここまで5分。これが優秀なオープニングだ。
posted by おおおかとしひこ at 19:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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