だと僕は思っている。
最近のCMはそうでもないらしい。
商品を使う喜びを笑顔で表現すれば、表現したことになるらしい。
いつからこんなに幼稚になってしまったのか。
これでは幼稚園のお遊戯ではないか。
(まあ昔からそういう詰まらないCMはあったけど)
AをAで表現するのは、表現でも何でもない。
それは模写とかお遊戯に過ぎない。
AをBで表現するのが表現だ。
モチーフとは、Bのこと、つまり表面に現れた表現そのもの。
テーマとは、Aのこと、表現を使って表現する内容のことだ。
嬉しいを笑顔で表現するのは、
動物的反応であり、文化である表現ではない。
つまり、最近のCMは、文化のレベルから、
動物的行動に堕している。
フランスのチョコレートのCMに、こういうのがあった。
男が荒野でヒッチハイクをしている。
車はバンバン通りすぎるのだが、誰も拾ってくれない。
一計を案じ、親指を立てる右手に、
商品のチョコを握って見せてみる。
と、車は止まることなく、
チョコごと右腕をもがれる、というブラックなコントCMだ。
(コントなので血も出ず、服ごとなくなった体だった)
エスプリの効いた、とはこのようなことだ。
「皆が欲しいチョコレート」というテーマを、
「沢山の人が走ってきてチョコレートを奪い合う」
「チョコレートをあげたら嬉しい顔になる」などという、
そのままのAでなく、
ずらしたBで表現する。
これが文化であり、表現であると僕は考えている。
Aに対してどう違うBを持ってくるかだ。
AとBの新しい関係を見いだすことが創作だ。
まさかこのBでAを表現するとは思わなかった、が新しい表現である。
CMをつくる人たちは、かつて文化をつくろうとしていた。
2000年代中盤ぐらいまでは、少なくともそうだった。
それ以降、急に表現が文化でなくお遊戯になった。
僕は多数決がシステム上増えたからではないか、と考えていたが、
ここまでダメCMが増えるのは、もはや教養の問題かも知れないと思うようになってきた。
CM業界の話なら適当に聞いてられるかも知れないが、
同じことはあなたの表現で起こっていないか。
「何が言いたいのか分からない」と言われて、
Bに消しゴムをかけ、Aにリライトした経験はないか。
AをAで表現しないと「伝わらない」という不安はないか。
「分からない」のはAが、ではない。
AとBの関係が、分かるほどきちんと出来ていない、という意味なのだ。
ついでにいうと、それがありがちで陳腐か、意味がわからなさすぎるか、
分かっても面白くないかのいずれかなのだ。
分からないと言われて説明を表現に加えるのは、
間違ったリライトである。
説明せずに分かるように、カット割を組みなおすのが、
正しいリライトだ。
AをAで表現するのは、幼稚な動物的行動だ。
もしこのストレートが効果を発揮するとしたら、
周囲が全て間接表現で埋まった状況で、
唯一の豪速球になり得たときだ。
へぼいストレートではストライクは取れない。
アナと雪の女王では、Let it goが強力なストレートである。
それは、閉ざされた心を氷の城で表現する、間接表現の中にあるから効果的なのだ。
好きな人にストレートに好きだというのは、
現実の話であって、表現の世界では三流である。
「風魔の小次郎」の好きだと言うシーンはどうだったか。
「あと、強い善人だってこと」だった筈だ。
2014年06月19日
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