2014年06月19日

表現とは、モチーフとテーマをずらすこと

だと僕は思っている。

最近のCMはそうでもないらしい。
商品を使う喜びを笑顔で表現すれば、表現したことになるらしい。
いつからこんなに幼稚になってしまったのか。
これでは幼稚園のお遊戯ではないか。
(まあ昔からそういう詰まらないCMはあったけど)

AをAで表現するのは、表現でも何でもない。
それは模写とかお遊戯に過ぎない。
AをBで表現するのが表現だ。


モチーフとは、Bのこと、つまり表面に現れた表現そのもの。
テーマとは、Aのこと、表現を使って表現する内容のことだ。

嬉しいを笑顔で表現するのは、
動物的反応であり、文化である表現ではない。
つまり、最近のCMは、文化のレベルから、
動物的行動に堕している。

フランスのチョコレートのCMに、こういうのがあった。

男が荒野でヒッチハイクをしている。
車はバンバン通りすぎるのだが、誰も拾ってくれない。
一計を案じ、親指を立てる右手に、
商品のチョコを握って見せてみる。
と、車は止まることなく、
チョコごと右腕をもがれる、というブラックなコントCMだ。
(コントなので血も出ず、服ごとなくなった体だった)

エスプリの効いた、とはこのようなことだ。
「皆が欲しいチョコレート」というテーマを、
「沢山の人が走ってきてチョコレートを奪い合う」
「チョコレートをあげたら嬉しい顔になる」などという、
そのままのAでなく、
ずらしたBで表現する。

これが文化であり、表現であると僕は考えている。

Aに対してどう違うBを持ってくるかだ。
AとBの新しい関係を見いだすことが創作だ。
まさかこのBでAを表現するとは思わなかった、が新しい表現である。


CMをつくる人たちは、かつて文化をつくろうとしていた。
2000年代中盤ぐらいまでは、少なくともそうだった。
それ以降、急に表現が文化でなくお遊戯になった。
僕は多数決がシステム上増えたからではないか、と考えていたが、
ここまでダメCMが増えるのは、もはや教養の問題かも知れないと思うようになってきた。

CM業界の話なら適当に聞いてられるかも知れないが、
同じことはあなたの表現で起こっていないか。

「何が言いたいのか分からない」と言われて、
Bに消しゴムをかけ、Aにリライトした経験はないか。
AをAで表現しないと「伝わらない」という不安はないか。
「分からない」のはAが、ではない。
AとBの関係が、分かるほどきちんと出来ていない、という意味なのだ。
ついでにいうと、それがありがちで陳腐か、意味がわからなさすぎるか、
分かっても面白くないかのいずれかなのだ。

分からないと言われて説明を表現に加えるのは、
間違ったリライトである。
説明せずに分かるように、カット割を組みなおすのが、
正しいリライトだ。

AをAで表現するのは、幼稚な動物的行動だ。
もしこのストレートが効果を発揮するとしたら、
周囲が全て間接表現で埋まった状況で、
唯一の豪速球になり得たときだ。
へぼいストレートではストライクは取れない。

アナと雪の女王では、Let it goが強力なストレートである。
それは、閉ざされた心を氷の城で表現する、間接表現の中にあるから効果的なのだ。


好きな人にストレートに好きだというのは、
現実の話であって、表現の世界では三流である。
「風魔の小次郎」の好きだと言うシーンはどうだったか。
「あと、強い善人だってこと」だった筈だ。
posted by おおおかとしひこ at 13:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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