知的体力の低い人は、
思考をコントロール出来ない。
逆に言うと、プロは思考や発想を意図的な方向へ導く。
「発想やアイデアを練る」ことを、
知的体力が低い人がやると、
ただ闇雲にその周りのことを考える。
今の現状を色々変形したり、
新しいものを足したり、
現状を分析したりすることで、
現状の周囲を探索し、「偶然の閃きによって」アイデアにたどり着いた気になる。
それが正しい問題解決のアイデアかどうか検討することもなく、
ただジャンプアッブした経験の気持ちよさだけで、
そのアイデアが「一番」素晴らしいのだと錯覚し、
それ以外のアイデアを考える労力を放棄し、
その閃きこそ最高だと思い込んだまま思考を終了させる。
まるで、これ以上歩くことは出来ない子供のようだ。
これ以上歩くことが出来る体力がないから、
最初に見えた宝物のような屑鉄を、結論としてすがるのだ。
プロはこういう思考の仕方はしない。
周辺を歩くことや、分析をすることは同じだ。
しかし素人の分析力より、プロの分析力は細かく深い。
そのジャンルの知識の、年の功の深さもあるし、
別のジャンルとの連携の広がりまで調べる知的体力もある。
そして、問題を分析し、
「おおむねこの方向で考えてアイデアを閃いたものが、
全てをよくするものだ」とアタリをつけて、
その方向だけを深く考える。
あるいは、問題を列挙し、これを全て解決するには、
○○クラスの閃きが必要である、と結論の質を見積もる。
そこではじめて本気を出すのである。
本気を出すスペースをつくり、
そこが正解であることを見てから、本気を出すのだ。
間違ったところに凄いアイデアがでても、
いびつなものにしかならないのは経験が教えてくれる。
そのアイデアを採用するなら、
本道でそれを凌駕するアイデアが必要なことぐらい、
経験で知っている。
「アナと雪の女王」では、挿入歌のレベルだったはずの、
「Let it go」の出来が偶然すごかったらしい。
姉妹の和解という本筋ではない脇筋がこのように成長した場合、
取るべき道はふたつある。
本筋をこれ以上出来をよくすることと、
出来のよいこれを本筋にすることだ。
前者はトライしたかもしれないがダメだったのかもだ。
となると、後者を選ぶべきだった。
姉妹の和解のドラマを組み直し、
「Let it go」をラストに、「姉妹で」歌うことがクライマックスになるべきだった。
それがいびつなまま完成してしまっていたのが現状だ。
第三の道、「Let it go」を捨てて、
もう少し出来の悪いミュージカルにしたうえで、
後半戦に勝負曲を持ってくるのが正解だったろう。
しかし、その勇気はスタッフの誰にもなかったのだ。
歌の出来は、正直偶然だから。
昔の広告業界では、一本のCMをつくるのに、
一ヶ月考えることは普通だった。
そのときやっていたことは、
「考えられる全方位に閃きを出す」という全探索だった。
全ての方向性への解決で、オリジナルなアイデアを求められていた。
この過酷なアイデア出しの経験が、
今の僕の知的体力の基礎になっている。
苦手な方面への筋肉も鍛えられたから、
一応どんなものでも考える自信はそれなりにある。
今ではそこまではやらないが、
「この方向に、これぐらいの正解を出せば、
成功である」と確信が持てるまで、
現状を分析することと、
そこから本気でそのエリアで考えることに全力を使う。
知的体力があるとは、
そのように横断的にものを見て、
正解の方向を(いくつか)見いだして、
なおかつ閃き的なアイデアを、出せることだと思う。
素人は、闇雲に考えて、鉄屑なのに宝物と思い込む。
時間と労力があれば、あらゆる方向性で考える。
2014年06月18日
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