映画「好きって言いなよ。」の「特別映像」というのがある。
ググってください。
予告編の一種だが、音トラックが主題歌だけで、
セリフやSEに当たる部分は、全部漫画の吹き出しと書き文字が乗っていることで表現されている。
「マンガと映像の融合」といえば聞こえはいいが、
実はこれは、三人称表現と一人称表現についての差異に、大いなる示唆を与えてくれる。
少女マンガは、実は三人称表現のふりをした、一人称表現の文学である。
一見三人称形式の、キャラクターやセリフや行動が飛び交い、
これをそのまま映画にすれば、三人称形式として成立するような気さえする。
しかしそれは少女マンガに対する理解が浅い。
少女マンガの最も表現の粋を尽くしているところは、
ナレーションだ。
ボイスオーバーや心の声である。
主人公の心の声、思い、各キャラの思いなどが、
少女マンガのメインディッシュなのだ。
ためしに、少女マンガのナレーションを黒く塗りつぶしてから、
ストーリーを眺めてみたまえ。
なんと味気の無いものになってしまうことだろう。
本編の魅力の、三割ぐらいに落ちたものになってしまうと思う。
少女マンガの魅力、本質とは、
三人称形式の、プロット(事件、過程、解決)、(他人に言う)セリフ、基本設定ではなく、
一人称形式の、気持ちの(言葉的)表現なのである。
その意味では、少女マンガは、映画より小説に近い。
一方、三人称形式である「芝居」に目を向けてみよう。
その役者が芝居が上手いかどうかは、セリフを言わせてみればわかる。
ひとことふたことではなく、ワンシーンぐらいの長いものだ。
その場の空気を自分のものに変え、場の支配力をもち、
華があり、なおかつ登場人物の気持ちが痛いようにセリフに乗ってくるものが、
いい芝居である。
役者の中の心の声は、テレパシー装置がないかぎり、
我々観客には聞こえない。
逆にいえば、
芝居とは、聞くことの出来ない心の声(感情)を、
仕草や表情やセリフや間にこめて表現するものなのだ。
「あるかんじのいい顔に、ナレーションをかぶせて心の中を表現する」のは、
三人称芝居の、真逆なのだ。
若手役者の主役二人は、間違いなく芝居が下手だ。
それは本予告のセリフの読みを聞けばわかる。
「特別映像」のマンガのセリフの方が、彼らの三文芝居よりも、
はるかに豊かな想像を刺激してくれる。
(作った人は、おそらくそこまで考えている)
少女マンガとは、三人称芝居でなく、一人称芝居だ。
心の声が主体の、気持ちの表現のしあいである。
それが、三人称芝居になるわけないではないか。
少女マンガを実写化することは、一人称小説の実写化と同じ困難があることを、
スタッフは理解しているだろうか。(おそらく、否だろう)
一人称表現で、いかに心の内面を豊かに表現したとしても、
三人称表現では、「じっとだまって相手を見ている」だけの、三文芝居になることは、
容易に想像出来る。
僕は少女マンガの実写化に、あまり賛成ではない。
それは、一人称表現を三人称表現でやられると、「寒い」のひとことに尽きるからだ。
誰も、主人公のモテナイ女の子のモテに興味を持てない。
一人称的な「思い込み」がないかぎり、
モテナイ女の子は、
「すべての目の前に歩く人間たち」のなかで、
主役になりえるはずがない。
三人称表現で主役をはるべき「格」とは、
集団の中でもっとも事件解決のキーになる人物である。
一人称表現がどんなに豊かでも、三人称表現のなかでは、
地味でめだたない、端役でしかないはずだ。
それを、三人称表現の主役にしてしまうことが寒い。
感情移入とは真逆のことに、かならずなってしまうだろう。
少女マンガの表現とは、
すなわち「思い込み」なのだ。それは第三者には伝わらない。
「自分の思い込みが他者に伝わらないこと」が恋愛なのだから、
それは一人称表現のなかでは正しい。
しかし、三人称表現ではそれをうまく表現するのは困難だろう。
心の声を字幕で出す?
それと実質同じことを、その「特別映像」はやってしまったのだ。
「私のやさしくない先輩」という珍品(川島海荷スーパーかわいい)は、
「思い込みや気持ち」を全て本人のナレーションでやってしまった失敗作だ。
一度見てみると、一人称的思い込みが、いかに三人称だと寒いかわかるだろう。
2014年06月18日
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