非常に強力なので、大岡式テンプレと命名。
A: 物凄く面白い話を書く。一行か二行の、ログラインまたはあらすじ。
B: それを主人公がどう解決したか書く。
C: 主人公はこの冒険を通して、「○○○」ということを学んだ。
Aがモチーフ、Cがテーマ。
(そして前回までの議論から、これらは違うものが理想)
例をいくつか。
「ロッキー」
A: 引退を口にしたロートルボクサーに、世界戦のチャンスが。
B: 最後のラウンドまで倒れない
C: 自分はちっぽけなチンピラじゃないと示せる
「ルパン三世・カリオストロの城」
A: 過去に一度だけ失敗した、偽札事件へのリベンジ。
その途中で美しい姫を助ける。
B: 抱き締めずに、日常へと帰っていく
C: 愛に答えることが全てではない
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」
A: タイムマシンで過去にいったら、母親に惚れられた。
父と母の出会いを壊してしまった。
B: 父と母をくっつけ、現代に戻れた
C: 自分は祝福されて生まれてきたことを知る
テーマとは、映画の全てではない。
ロッキーは、テーマを語る為に全ての要素を配置している、
「テーマの映画」(それゆえにアカデミー賞脚本賞)だが、
カリオストロの城や、バック・トゥ・ザ・フューチャーは、
このテーマを言いたいが為の全体ではない。
が、冒険の果て、結末に達したときに、
主人公が抱く感想(学び)は、読後感となって残る。
バック・トゥ・ザ・フューチャーでは、
自分のアイデンティティー(ルーツ)が明確になり、
自分は思ったよりちっぽけじゃないことがわかり、
ギターの件に関しても自信を持つことができた。
(これが主たる感情ではないことを分かっているから、
さらにだめ押しで「未来からドクがやってきて、未来へ!」
というラストが追加されている)
カリオストロの城では、
泥棒の嫁になっちゃいけない、と諭し、
この稼業を引退することをせず、
仲間の元へ帰っていく。
それは自らのアイデンティティーの確認でもある。
「なんと気持ちのいい連中だろう」というじいの感想は、
その読後感をあらわしている。
双方とも、これが映画の中心的テーマでもモチーフでもない。
冒険譚がその主戦場だ。
にも関わらず、自分とは何か、というアイデンティティーのテーマが、
命をかけた冒険の末にわかるのだ。
この読後感が映画だ。
単なる冒険、ハイサヨナラではないところに、
「何かがある」のだ。
(必ずしもアイデンティティーでなくてもよいだろう)
ロッキー型のような、
全ての要素をテーマにそって配置したものは、
なかなかない。それは、難易度が高いからだと思う。
映画本編の娯楽性を描きながらも、
映画的読後感になるように、色々なことが配置されているのが、
上記二本の巧みさだ。
ロッキー型は、たいていアカデミー賞脚本賞を取ったような、
「しっかりした」脚本に見ることが出来る。
勿論これを目指すことが理想だ。
(「風魔の小次郎」では、原作の死生観や必殺技などをモチーフとして、
変更することは出来ないという、原作もの特有の制限があった。
しかし、「そのモチーフが、一体何を描くのか」というテーマに関しては、
監督脚本である僕が決めることだ。
原作風魔は、ただでさえテーマのない作品だ。
僕はテーマを創作することで、ロッキー型のように、
全てのモチーフをテーマを意味しているように再解釈、再編成しているのだ)
ロッキー型の例を。
「七人の侍」
A: 野武士の襲撃を防ぐため、仲間をあつめる
B: 野武士を倒し、田植え祭り
C: いくさが勝ちではなく、農民こそ勝ちだ
「勝ったのは、農民かも知れん」と侍大将が言う、
有名なラストの台詞でテーマが確定する。
テーマを言ってしまっているのはあまり上手とは言えないが、
それまでの戦いがあまりにも面白かったので、
納得させられてしまう力業だ。
武士→農民という逆転も鮮やかである。
とは言え実際に農民が出てくるのはラストだけだ。
日本人の常識的に、農民は常にいるから、
日本人の意識構造ごと、問題設定に使っているとは言える。
「E.T.」
A: 少年がはぐれた宇宙人を拾い、彼の母船へとどける
B: 宇宙人の力で飛び、いじめっこたちをぎゃふんと言わせる
C: 無視された自分に自信がついた
E.T.のテーマも、実は少年のアイデンティティーだ。
親からも友達からも卑下されている、
という問題設定を最初にしてある。
その少年が「とくべつなもの」を所有することで、
馬鹿にされない自信を得る、
という骨格を有している。
とくべつなものは、物語によって様々なものがあるだろう。
伝説の聖剣、超能力など、たいていは破壊的武器だが、
この作品では「ふしぎないきもの」だ。
容易に想像出来るとおり、これは「犬を拾って飼う話」の変形である。
(アイアンジャイアントも、全く同じ構造の映画)
少年にとっては犬を拾うことは日常の大事件なのだが、
それでは映画としてパンチがないから、
犬を宇宙人クラスに引き上げたのである。
シングルマザーの家庭、という80年代おきはじめた問題も、
そこにチラリと噛ませるのがうまい。
少年エリオットは父性に餓えている。
NASAから来た科学者が唯一彼の理解者になる後半のドラマは、
父性の補完のドラマである。
母性と父性がそろったとき、死んだと思われたE.T.は、
息を吹き返す。これは彼のアイデンティティーの誕生の隠喩である。
「スタンド・バイ・ミー」
A: 死体を探す旅に出た四人、旅の途中にした「自分は何になるか」という話
B: 銃を向け、死体の権利を得て帰ってくる
C: 感性が豊かだったあの時期は、大事だ
アイデンティティーの映画の例をもうひとつ。
この映画はモチーフとテーマの関係について示唆を与える。
モチーフは、「列車事故で死んだ子供の死体の場所がわかったから、
第一発見者になりにいこう」という旅である。
橋を渡る冒険や、悪いアニキたちとの戦いなど、
大冒険が、主に描かれる。(モチーフ)
しかし、本当のところは「自分は何になるべきか」という話なのだ。
(テーマ)
クライマックス、死体を見て、主人公ゴーディは感じるところがあっただろう。
優秀な期待された兄が死に、自分が何者か分からないまま、
給食費を盗んだ汚名を着させられた親友の、真犯人の告白を聞き、
「お前は小説家になれ」と言われた次の朝見た、誰にも言わない白い鹿。
死体を見て、ゴーディは次の階段を上った。
それは目に見えないけど、冒険の結果だ。
だから銃をアニキたちに向けることが出来たのだ。
死体は、今生きる自分の逆だ。
これらのモチーフで、「あんな友達はもう出来ない」と語るラストで、
多感な時期への賛歌をするのだ。
多くの勧善懲悪もの
A: 悪がはびこり、正義がそれを倒そうとする
B: 悪はほろびて、めでたしめでたし
C: 正義は勝つ、悪は決して栄えない
この古典的構造がなくならないのは、
現実では正義が勝つとは限らないからだ。
悪がまかりとおるのは、どの世界でもどの時代でもある。
正義が踏みにじられる現状があればあるほど、
勧善懲悪ものは人気が出るだろう。
半沢直樹のヒットは、それゆえ日本がキナ臭くなっていることの証拠かも知れない。
次の勧善懲悪もの?ごり押しを倒す話はどうだろう。
吹き替え洋画がいいんじゃないかな。
多くの恋愛もの
A: 詰まらない日常に素敵な恋が
B: 恋は成就
C: 私は詰まらない女ではなく、幸せになる価値のある人間だった
恋愛ものが何故受けるかというと、
「女のアイデンティティーもの」だからだ。
女の価値は男で決まるなどという、古くさいことを言おうとしてるのではなく、
「私すごい」がテーマで、
恋愛がモチーフになっている、ということを言っている。
モテナイ女がため息をつくような、
凄いモチーフと、自然なストーリーラインと、予想できないターニングポイントをつくり、
テーマに上手く誘導出来れば、恋愛ものはヒットする。
(しかし、観客としては半分だ。
これをこなしたうえで、残り半分を取りに行くことが、
本当にメジャーなものを狙うことだ)
「ゴースト/ニューヨークの幻」
A: 死んで幽霊となった男が、彼女が殺されるのを防ぐ
B: 彼女を守りきり、愛してるってちゃんと言えた
C: 愛する人に愛してると言うこと
この映画のユニークな所は、
女のアイデンティティーではなく、男のアイデンティティーになっているところだ。
このテーマを描くために、
黒人霊媒師(ウーピーゴールドバーグの当たり役)
という飛び道具のモチーフまで引っ張り出す。
このテーマの為に、主人公サムは、
一度も婚約者モーリーに「愛してる」と言ってない、
という基本問題設定がなされているところに注目しておきたい。
モチーフとテーマの関係を理解するには、
この簡単なテンプレに落としこめるかどうかだ。
キーはBにある。
ラストどうなったか、主人公は何をしたかが、
実はテーマを決めているのである。
最後になしえたことで、
主人公は自分に足りない何を学んだか、
それがテーマだ。
名作を分析し、このみっつを抽出することは、
物凄く勉強になるだろう。
翻って自作である。
テンプレを埋めてみよ。
モチーフとテーマを分離せず、
テーマをテーマでいう幼稚なものになっていたり、
Bとテーマが一致してないことだってあるだろう。
2014年06月20日
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