説得力があるかないかは、
映画の中ではひとつしか基準がない。
「一般的に正解と思われること」が説得力があり、
特殊解には説得力がない。たったこれだけだ。
客観性がない、と作品がよく言われる人は、
そこに注意するとよい。
ある状況下で、人の選択肢や計画に説得力がないのは、
客観性がないからだ。
その状況下だったら「誰もがそうすること(考えること)」
をしないから、客観性がないのである。
「それじゃ詰まらないから独自の展開にする」は間違い。
説得力を欠き、なんだか分からない方向へ行ってしまい、
もっと客観的になりなよ、と言われるものが出来上がる。
誤りはどこか。
その状況下で特殊な選択をしたことではなく、
一般的で平凡な選択が正解、という状況をつくったことが悪いのだ。
どれが正解か分からない、特殊な状況をつくるべきだ。
それならどの選択肢でも等価のものになる。
リスクやリターンはそれぞれ分かっていることが大事だ。
明らかなローリスクハイリターンを上手く除き、
ハイリスクハイリターンとローリスクローリターンを並べたり、
ハイリスクハイリターンだけを並べるようにする。
ここに、人物の事情を加味する(正確には、前振っておく)。
その事情ならばその選択肢を取るだろう、
という予想通りに、その人物はその選択肢をとり、
説得力のある展開になってゆく。
あるいは、誰もがそうすることに、意外な弱点があることが分かれば、
特殊解が説得力をもったものとして逆転することが出来る。
特殊解が何故一般的な正解より勝るのか、
その状況と理由が上手く作れていれば説得力がある。
「あなたがそう描きたいから」というシーンは、
高確率で説得力がない。
説得力とは客観的三人称であり、
「そう描きたい」は一人称の世界だからだ。
独りよがりは、一人称の世界の話である。
試しに、自分の作品の朗読を、
カメラ目線でなく(レンズの横30センチにいる誰かに向けて)、
録画してみるとよい。
その人の言っている話に無理があることに気づければ、
一人称的になっている病巣を特定出来るだろう。
更に試しに、カメラ目線で録画してみるとよい。
無理があるところが、カメラ目線の強さで誤魔化される筈だ。
カメラ目線とは、一人称の世界である。
一人称の世界で成立する「思い込み」は、
三人称の世界(カメラに向かってではなく、誰か他の人に言うこと)では、
全く客観性を欠くことがあることに気づくだろう。
一人称の世界はオナニーだ。
三人称の世界は公開録画だ。
説得力は、三人称の世界の出来事である。
2014年06月21日
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