凄いバトルシーンを描くと、夢中になってくれるのか。
うっとりするキスシーンを描くと、夢中になってくれるのか。
否だ。
地球をまもるために、このままでは正義が葬られてしまうから、
個人の尊厳のために、戦いに負けたらそれが失われるから、
人はハラハラするのだ。
キスに興奮するのではなく、「好きだから」という感情に興奮するのだ。
バトルものというジャンルすらある。ひたすら戦うだけの作品だ。
バトルのさまを面白おかしく描けば、
それで面白いだろ?というものだ。
それは多少面白いかも知れないが、夢中にはならない。
あるいは、映画的な面白さではない。
かつて実験して発見したことがある。
僕はカンフーものが大好きで、
ジャッキー・チェンブームの80年代当時、
テレビではカンフー映画をバンバンやっていた。
ドラマのたるいところより、カンフーバトルを見たかった僕は、
「ダビングによる編集」という概念を知って、
バトルシーンだけを抜き出して繋いでみた。
興奮するカンフーバトルが延々と続き、
テンションの下がるドラマが入る余地のない、
男子中学生にとっては夢のようなビデオになる予定だった。
それが、まるで面白くなかったのだ。
最初は楽しい。が、10分20分30分とたつにつれ、
なにもかも詰まらなくなってくるのだ。
「こいつらは、何のために戦ってるの?」
と、白けてきてしまうのだ。
バトルは刺激に過ぎず、「何のために」ということの大事さに気づいた、
それは中3の出来事である。
(バトルだけを繋ぐのはダメだ、ということが分かっただけで、
どうすればいいかについてはまだ分かっていなかった。
もとの映画に戻せばいい、か、一気見せず、ちょっとづつ見る、
ぐらいの結論だった)
そののち大人になって、賢者タイムという言葉を知り、
エロビデオを数時間ぶっ続けで見ても意味がないことは、
このカンフーと同じことなのだと気づく。
刺激は、たのしい。
しかし刺激はより過激にならなければならない。
その刺激は従って、いつか臨界点を迎える。
それを越えると賢者タイムに入る。
「それに何か意味があるの?」に。
その刺激に飽きない時間は、長くて20〜30分といったところだろうか。
それ以上は「意味」がいるのだ。
こいつらが必死で何かしているのは、「何故か」が。
一方、ロッキーシリーズのクライマックスの試合は、毎回興奮する。
相変わらずそれだけを編集して比べてみる、なんてこともしてみた。
ロッキー1の試合は、正確な数字は忘れたが3分ぐらい、
という物凄く短いもので、びっくりした記憶がある。
どのロッキーも、30分ぐらい試合してたイメージがあるからだ。
これらの試合に、それぞれ「意味」があることぐらい、
当時の僕でも知っていた。
1:チンピラが脚光を浴びるチャンス、俺は俺だと世間に言うこと
2:アポロの再戦、本気でやったらどうなるのか
3:ミッキーの敵討ち、アポロとの友情
4:アポロの敵討ち、ソ連(当時)への嫌悪感
2、3がいまいちで、4が燃えることも、なんとなく分かっていた。
4の燃えの原因は、この試合がソ連との代理戦争だという、
スケール感だと気づいた。
つまりロッキーは、国のスケールで戦う。
(JBが歌うのは、アメリカ讃歌「Live in America」だ)
観客である我々は、試合シーンではなく
(勿論この試合シーンは歴代ボクシング映画の中でも、とりわけよく出来ているが)
戦う理由、負けたときに失う、失ってはいけないもの、
に興奮するのである。
Mr.T、ドラコという歴代の「敵」は、その「象徴」になっている。
その象徴との戦いが、すなわち戦う意味を内包している、
意味を形で示している、
ということに、大学ぐらいのときに気づいたかなあ。
ただ戦うだけじゃダメだ、戦う理由に感情移入できなきゃ映画じゃない。
僕は少年漫画出身だから、
バトルありきでこう考えてしまう。
が、映画出身なら、
とある事情があり、それがどうにも戦わざるを得ない理由になってゆき、
(なるべく危険を避けて)戦う、
と考えるべきだろう。
バトルはバトルシーンである必要はない。
一発の銃弾でよい。(60年代や70年代の映画では、一発の銃弾のパターンは多い)
そこに特殊効果や予算をかけるのではなく、
たった一発の銃弾でも成立するような、
面白い話をつくらなくてはならないのだ。
女優が脱ぐとか脱がないではなく、
そこに至る理由に感情移入させていることが重要なのだ。
(大抵の脱ぐ映画は、感情移入する話がないから脱がせて誤魔化すのだが)
アクションやバトルやセックスシーンは、
映画のハイライトであり、
それをきちんと、面白く、美しくつくることがいいことなのは、
やぶさかではない。
(インド映画では、セックス描写の代替物として、あの歌と躍りが発展した)
しかしハイライトがなかったとしても、
映画が面白い話である必要があるのだ。
何故なら、映画とは感情移入する物語だからだ。
(ちなみに今必要があって「孔雀王」を全巻読み返している。
最初の退魔ものはまあまあ面白いが、敵が出てきてからの、
バトルの理由の希薄なこと。似たような同時代のものや後続の物語、
「ドラゴンボール」「うしおととら」「鋼の錬金術師」あたりと比較して論じたいところだ)
2014年06月22日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック