難しいことを言ってみたが、誰もが経験していることだ。
独特の世界にいって帰ってきたとき、
物語でない我々の現実が、ちょっと違ってみえることだ。
マトリックスを見たとき、この現実は仮想だったり、とか、
幽霊はマトリックスのバグで、とか、
本当の世界で目覚めるために今の現実があって、と考える遊離感がある、
そのようなことだ。
思う力が強ければ、俺も弾丸を避けられるかも知れない、
と夢想することだ。
ドラえもんを見たとき、机の引き出しが未来に繋がっていやしないか、
と夢想することだ。
現実は、物語体験によって別の見え方をするのだ。
現実は、現実の意味がある。
それは動かしようのない、変わらない真理だ。
それを、別の可能性で見ることを異化という。
いじめられっ子は、
苛められている現実を変えられない。
しかし、物語の中でいじめを変える体験を積むと、
変えられない現実が、物語の中のように変えられるものではないか、
と「考え方を変える」ことが出来るようになる。
それまでは動かない現実と思われていたのに、だ。
実際、現実を変えた人もいると思う。
100人いて1人ぐらいかも知れないが。
しかしそれは、それを見るまでは考えもしなかったような、
「現実の新しい見方」を手に入れる行為なのだ。
マトリックスに話を戻すと、
この世界は仮のものではないか、という考え方のシフトは、
失敗してもいいや仮だし、という勇気を現実に与えるかも知れない。
思えば弾丸を避けられるかも、という考え方のシフトは、
思いを現実化する創作分野への転向を後押しするかも知れない。
マトリックスは単なる二時間ではない。
それを見て現実を、別の考え方が出来るようにした、
思想でもあるのだ。
これは、かつて宗教と科学と物語と哲学が一体になっていた時代、
宗教が担っていたことだ。
現実はこの現実だけでなく、ある別の原理によって支えられていること。
神話、天国と地獄、輪廻転生などは、そのような機能である。
それは、方程式や図式ではなく、
「物語」の形式でのみ伝達されることに注意されたい。
科学はこのうち実証再検証可能なことだけを抽出して、発展を遂げた。
神の科学的実在は、人類が宇宙に出るまで論争された。
それは、今見ている現実の裏に、見えないどのような原理が真にあるか、
という「見方」の問題なのだ。
ある種の自己啓発本や新興宗教は、
いまだにこれをやっている。
「モテ」についての指南書もそうだ。
厳然と存在し、強固に変わらないと思える、
冷徹な現実に、
誰も気づいていなかった、
別の考え方や可能性を見いだせるものを描くこと。
これが物語である。
物語とは、現実を異化する行為だ。
授業に退屈した高校生が窓の外を見て、
雲の形が変わったり、軍隊が攻めてきて授業が中止になんねえかなあ、
と思う夢想は、物語である。
現実を逃避し、現実を異化することで、
現実の別の可能性に気づくのだ。
(軍隊に壊される程度なのだから、授業には大した強制力はないと安心することなど)
勿論、それは一人称の個人的な物語だ。
映画はマス対象の文学だ。
三人称形式で、誰もが思う現実を、誰もがワクワクするように、
異化してみせねばならない。
それを競うのだ。
「この現実とは全く違う別世界」を描くのは、
そこに現実逃避させて、現実を異化するためだ。
異世界ものが物語の定番なのは、当然だ。
異世界ものだけが必要なのではない。
ファンタジー的異世界だけでなく、
我々の現実にとって別世界なら、
それは何でもいい。
刑事物や医療ものだって構わない。
僕にとって女子高は別世界だから、興味がある。
トレンディドラマは、「都会」が別世界だからこそ機能した。
冬のソナタは、別世界だからこそ流行った。
「世にも奇妙な物語」は、一見日常に見えるすぐ横に、
奇妙な別世界への入り口があることで、人気を博した。
どんな別世界をあなたは描くのか?
それは自由だ。
その価値は、それが終わって現実に我々が帰ってきたとき、
どれほどそれまでの現実が異化されたか
(現実が違って見えるか)で決まると思う。
これを単に、物語は夢を与える、などと美辞麗句で言われることがあるが、
それはこの議論をしていない、浅いものだ。
異化とは、ある意味先入観を覆すことでもある。
180度先入観を覆すのが、傑作だと思う。
映画はよく旅にたとえられる。
海外旅行などで、「全く別の原理」を見て感心したりすることはよくある。
それは、我々「日本人の世界」が異化されるのだ。
国内でも、田舎へいけば都会が、都会へいけば故郷が、異化されるだろう。
旅行へいくこともなく、物語ではそれをするのである。
2014年06月22日
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