昔、「表現塾」というのをやればいいのではないか、と仲間と話したことがある。
そのときの課題はこういうものだ。
小学校程度でならう「芸術」で、すべて同じ課題を表現する、というネタだ。
課題は「風」とする。
水彩画で、鉛筆画で、版画で、切り紙で「風」を表現する。
書道で「風」を表現する。
創作ダンスで「風」を表現する。
楽器または作曲で「風」を表現する。
「風」を表現した俳句、詩、小説を書く。
写真で「風」を表現する。
彫刻、粘土、立体物で「風」を表現する。
服のデザイン(+髪型)で「風」を表現する。
これを一通り経験する、というものだ。
芸術には、様々な表現形式がある。
それらを鑑賞するとき、
それが何を表現しているかだけではなく、
表現のデフォルトの可能性を知った上で、どこまで表現の限界に迫っているかを、
知ることはとても重要だ。
価値のある表現、平凡な表現が世の中にあることを知る、よい方法だ。
表現者としては、
どんなに頑張っても伝わらない表現があり、
技術(表現力や観察力や再現力)が必要なことが、
身に染みて理解できる。
そして世の中には様々な表現形式があることに、あらためて気づくだろう。
これらの芸術様式は、映画に必要な技能に、ほぼ一致している。
各スタッフの専門領域とニアである。
監督は、これらを理解する必要があり、それらの教養が必要だ。
脚本家は、とくにストーリー部門に関して突出しなければならないが、
最終形態であるフィルムには、これらの要素で表現されるものであることを理解することだ。
デッサン力やデザイン力や身体能力や音感やストーリー力。
これらの総合力が映画という総合芸術であることを、理解することだ。
それには、全部を経験することが、実は手っ取り早いのではないだろうか。
さて、あなたは何が得意だろうか。
すべてに及第点を取ることが、脚本家という総合芸術の骨格をつくる者に必要なのは、
言うまでもないことだ。
つまりは、横断的な力だ。
課題は風だけではない。
「永遠の愛」「春が来た」「都会の憂鬱」など、いくらでも考えられるだろう。
叙景だけでなく、叙情も可能かもしれない。
2014年06月23日
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