2014年06月24日

デジタルは人を幸せにしない:ラテチュード

最新式のデジタルカメラの、
明るさのダイナミックレンジが13ステップと聞いて耳を疑った。

これでは素人は永遠に表現を学ぶことは出来ないだろう。


以下、少々専門的な話をする。

人間の目は、明るさについて、10000程度を見分けることが出来るという。

この世には様々な明るさのものがある。
最も明るいもの(超新星?)と最も暗いもの(ブラックホール)の、
明るさの差がどれくらいあるか、今科学的なデータを持たないが、
仮に数億ぐらいとする。
人間の目は、その一部しかとらえることが出来ない。
太陽ですら直接見続けることは出来ないし、新月の夜は外に出れない。

そのかわり、人間には虹彩という光調節機能が目についていて、
眩しいときは目を閉じぎみにして明るいところ合わせでものを見れるようにしたり、
暗いときは目を見開いて暗いところ合わせでものを見れるようにする。
これは殆ど無意識で行われ、本人が意識することは難しい。
(忍者はこれを意図的に利用した。夜部屋の中にいるときに目をつぶっておいて、
暗さに目をならせば、外に出てすぐ夜目が効く、などに応用された)
人の目は、虹彩の調整によって、10000程度の明るさの差しか見分けられない目の、
実効範囲を広げることで、現実にあるものを見てきたのだ。

このとき、どんな明るさに目をならしたとしても、
一番明るいものと暗いものの間は10000だ。
10000以上のものは眩しくてよく見えないし、
1以下のものは暗くてよく見えないのだ。
集中する(虹彩を調整する)ことで、
明るい方に目を合わせたり、暗い方に目を合わせたりすることも出来るが、
そのときも10000の目盛りは変わらない。
明るいところから、暗いところに徐々に目を慣らすことで、
10000以上の明るさの差のものを見ることもできる。
しかし、一度に見れるのは10000だ。


絵または写真というのは、
一番明るいところ(ハイライト)と、
一番暗いところ(最暗部)を決めることからはじまる。

絵の具の白と黒を決める。
絵の具の白は、今現実にある最も明るいものよりは暗く、
絵の具の黒は、今現実にある最も暗いものよりは明るい。
つまり、我々は10000の明るさの世界から、
例えば1000程度の明るさの差の世界の絵の具で、
絵を描く。
鉛筆デッサンは更に狭いだろう。
ハイライトは紙の白で、最暗部は鉛筆の黒だ。
10も差がないと思う。(アナログだから目盛りの間は無限)
優れた描き手は、ここに無限を描くことが出来る。


明るさの差の範囲を、(明るさの)ダイナミックレンジという。
元々は音響用語だ。
スピーカーの出せる最小音量と最大音量の差をいう言葉だ。
転じて、ある値の「範囲」を示す技術用語として使われる。

自然界の明るさのダイナミックレンジは、数億とかそれ以上だろう。
人間の目は1万で、調整で範囲を数倍ぐらいには増やせるが、
一度に見れるのは1万までだ。
絵の具による絵画は、それよりずっと少ないダイナミックレンジで描く。
鉛筆デッサンは、更に少ないダイナミックレンジで描く。


絵を描くということは、
どこから以降の明るい所は捨てて、
どこから以降の暗い所を捨てるか、
という「判断」のことである。

あるいは、人間の目以上の範囲の明るさの世界を、
人間の目以下のダイナミックレンジに納めてみせる、
その「判断」のことである。

どこからどこまでを描くか、その「判断」を、
絵を描く行為というのだ。



写真も同じくだ。
絵はある程度自由に筆をふるえる(嘘の明るさをつくれる)が、
写真では、今現実にあるものをベースにするしかない。

アナログフィルムのダイナミックレンジ、
これを伝統的にラテチュードと言うのだが、
フィルムのラテチュードは、基準の明るさに対し、
プラマイ3ステップ程度と言われている。
ステップは写真独特の表現で、
1ステップは光量が2倍になることを指す。
(f絞りはそれに対応している)

フィルムの感度、露光時間(シャッタースピード)、絞り、
レンズ選択、及びライティング(ストロボ光、定常光)によって、
写真家は、現実にある明るさのものを、
フィルムに感光させる。
基準になる明るさから、3ステップ上、つまり8倍以上明るいものは白く飛ぶ。
基準になる明るさから、3ステップ下、つまり1/8倍以下の暗いものは黒く潰れる。

写真家は、現実にあるものの、
どこを最もハイライトとして、
どこを最暗部にするかを、上のようなものでコントロールすることで、
現実にあるものを絵として定着させる。

元々全部の明るさを撮ることは出来ない。
それは絵の具や鉛筆デッサンと同じだ。
プラマイ3ステップ、つまり合計7ステップ、2の7乗で、
128段階の明るさの差しか、フィルムの表現力はないのだ。
これはポジフイルムの話で、ネガフイルムになるともう少しラテチュードは広くなる。
映画用フィルムのスペックは、1000程度らしい。
ちなみにテレビは、256だ。
(アナログ時代のテレビは30%以下の暗さはほぼ黒に潰れたから、
実質180以下だった)

写真も、絵も、人間の目にうつる10000の明るさの世界を、
ある種の縮めた世界にするのだ。
どこを捨てて、どこを拾うかを、「判断」する。
それを人は表現という。


写真(映画用カメラも同じ原理)では、
白に飛ばす所と、黒く潰す所を判断する。
ある明るさの所に焦点を当てるなら、
ある所からは白と黒に「捨てる」のだ。
(特に白黒時代は、それこそが表現だった。
今でも白黒写真が基礎と言われるのは、そのような理由がある)

独特の美しいライティングで知られた、
僕の大好きな巨匠市川崑は、
「どこにライトを当てるかではなく、どこを潰すかなんだ」
と言った。
影をつくることで、残ったものを表現したのだ。
日本の独特の芸術、浮世絵も同じだ。
背景に何も描かないことで、残った主題を表現するのだ。

つまり、表現とは、
何を残して何を捨てるかだ。

絵や写真は、
そのラテチュード、明るさのダイナミックレンジで、
それをする表現方法だ。


ここで、ようやく最新式のデジカメの話だ。
なんと、ダイナミックレンジが13ステップだという。
2の13乗、つまり、8192段階の明るさについて記録するという。
人間の目の1万まで、あとちょいであり、もうすぐそれは突破されるだろう。

ここで、問題が起きる。
「捨てない」という問題が。

表現とは、捨てることと残すことだ。
1000の範囲で捨てることと残すことをしてきた写真芸術は、
その8倍のものがうつるようになってしまったのだ。
これは、捨てるものを選べない、「散らかった部屋」になることは、
これまでに表現を鍛えてきた人間なら明らかに分かることだ。


便利な道具は、人間を育てない。
便利な道具は、人間の手の延長にはなるが、
脳の延長にはならない。
何故なら、脳は残すことと捨てることで、
表現を理解するからだ。

デジタルは人を幸せにしない。
13ステップのカメラで撮る絵は、人を幸せにしないどころか、
これで育った写真家の表現力は、
決してアナログフィルムで鍛えられた写真家の表現力に、
勝つことはないだろう。
それは、長期的に見ると写真が衰退することだ。

ハリウッド映画では、CG系を中心にデジタル撮影が増えた。
かつての美しい絵に比べ、最近のハリウッド映画は、
どれも似たり寄ったりの絵作りをしている。
それは何もかもうつってしまう、デジタルカメラが原因である。



脚本論に戻してみる。
俳句は、575にするから意味がある。
現実の大部分を捨てて、17文字の宇宙をつくる。
110分から120分に、何を捨てて何を残すかは、原理的にこれと同じだ。
デジタルは、これが急に8倍になったこととおなじなのだ。
それは、きっとダラダラしたもので終わるだろう。

白黒写真のほうが、今の写真よりハッとするものがあることを、
ステップをただ増やして喜ぶ素人は説明できないだろう。

表現とは、キュッと絞めることである。
posted by おおおかとしひこ at 15:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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