2014年06月25日

葛藤の描き方

コンフリクトを葛藤と訳すのは誤訳だ、
「ドラマとはコンフリクトである」は
「ドラマとはもめごとである」と訳すべきだ、
葛藤とは心の中のことだから三人称形式では見ることが出来ない、
と主張してきたが、
では葛藤はどう描いたらいいのだろう。

二つの選択肢を同時に用意するのが、最も映画的だと思う。


心の中の葛藤は見えない。
あなたがどれだけ深く苦悩し、どれだけ心がちぎれる思いをしても、
僕には分からない。
あなたの外見は、苦しそうな顔をしているだけだからだ。
「人の痛みは一万年でも耐えられる」という。
他人の痛そうな顔は、僕にとって痛くはないからだ。

三人称形式では、心の中を写すことは出来ない。
ただ人間には表情や身ぶりがあるから、
今の感情を大体推測することは出来る。
しかし、それだけで感情移入は起こらない。
あの人は苦しいんだろうな、という外見からの判断であり、
なんたる苦しみか、俺もこうだったら、このような苦しみを味わうだろう、
という感情移入ではない。


心の中の葛藤を、写せるものにするためには、
二つの選択肢を用意するのがよい。
それは、目に見えるものがいい。

右の道を行くべきか左の道を行くべきか、
赤の薬を飲むべきか青の薬を飲むべきか(マトリックス)、
結婚相手にフローラを選ぶのかビアンカを選ぶのか(ドラクエ5。僕はビアンカ派)、
時限爆弾の、赤い線を切るべきか青い線を切るべきか、
などの、対立する二者を出すのである。

それぞれを選んだときどうなるか、
そのリスクリターンは、わかっている方がハラハラする。
「さあどっちを選ぶのか」ということが、
彼の心の葛藤を、観客が楽しんでいることになる。

その二者の選択が、難しければ難しいほど、
心の葛藤に、観客は同一化しやすい。
このとき初めて、観客はその心の苦しみを、
表情や外面からでなく、理解することが出来る。



二者択一以外で、表現できるだろうか。
それ以外では、映画では機能しにくいと思う。

三者択一、四者択一ではひとつの選択肢の価値が下がっていき、
極端さ、劇的さ、鮮烈さがなくなる。

締め切りの設定は、決断に後ろから拍車をかけていてとても良い。
○○までに△△せよ、さもなければ…は映画の定番だ。
4月第二週までに部活を決めなければならない、
などではじまる学園ものは、よくある。

正体のないものにモヤモヤすることは、映画では描けない。
なぜなら、映画は「カメラで撮る」ものだからだ。
具体的な「もの」を撮ることで、
抽象的な「こと」を表現するのだ。


初心者は、
物憂げに窓にもたれため息をつく、とか、
公園のベンチに座り空を仰ぐ、などの動作で心の葛藤を表現しようとする。
その人物が悩んでいることは見て分かるが、
その心の葛藤の中身は分からないし、そこに感情移入も出来ない。

それよりも、
新妻のエコー診断で、お腹の中の赤ちゃんがダウン症であることがわかり、
中絶しますか?と医者に言われ、しかし彼女の体は一度手術したら、
二度と赤ちゃんは生めませんよ、
と言われて、病院の廊下で椅子に座り深いため息をつく、
という表現のほうが、
よほど新婚の旦那の葛藤に感情移入出来るではないか。



二つの対立する選択肢をつくり、
それを選んだときどうなるかを示せ。
その間での峻巡が、感情移入に足る葛藤になる。
posted by おおおかとしひこ at 14:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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