コンフリクトを葛藤と訳すのは誤訳だ、
「ドラマとはコンフリクトである」は
「ドラマとはもめごとである」と訳すべきだ、
葛藤とは心の中のことだから三人称形式では見ることが出来ない、
と主張してきたが、
では葛藤はどう描いたらいいのだろう。
二つの選択肢を同時に用意するのが、最も映画的だと思う。
心の中の葛藤は見えない。
あなたがどれだけ深く苦悩し、どれだけ心がちぎれる思いをしても、
僕には分からない。
あなたの外見は、苦しそうな顔をしているだけだからだ。
「人の痛みは一万年でも耐えられる」という。
他人の痛そうな顔は、僕にとって痛くはないからだ。
三人称形式では、心の中を写すことは出来ない。
ただ人間には表情や身ぶりがあるから、
今の感情を大体推測することは出来る。
しかし、それだけで感情移入は起こらない。
あの人は苦しいんだろうな、という外見からの判断であり、
なんたる苦しみか、俺もこうだったら、このような苦しみを味わうだろう、
という感情移入ではない。
心の中の葛藤を、写せるものにするためには、
二つの選択肢を用意するのがよい。
それは、目に見えるものがいい。
右の道を行くべきか左の道を行くべきか、
赤の薬を飲むべきか青の薬を飲むべきか(マトリックス)、
結婚相手にフローラを選ぶのかビアンカを選ぶのか(ドラクエ5。僕はビアンカ派)、
時限爆弾の、赤い線を切るべきか青い線を切るべきか、
などの、対立する二者を出すのである。
それぞれを選んだときどうなるか、
そのリスクリターンは、わかっている方がハラハラする。
「さあどっちを選ぶのか」ということが、
彼の心の葛藤を、観客が楽しんでいることになる。
その二者の選択が、難しければ難しいほど、
心の葛藤に、観客は同一化しやすい。
このとき初めて、観客はその心の苦しみを、
表情や外面からでなく、理解することが出来る。
二者択一以外で、表現できるだろうか。
それ以外では、映画では機能しにくいと思う。
三者択一、四者択一ではひとつの選択肢の価値が下がっていき、
極端さ、劇的さ、鮮烈さがなくなる。
締め切りの設定は、決断に後ろから拍車をかけていてとても良い。
○○までに△△せよ、さもなければ…は映画の定番だ。
4月第二週までに部活を決めなければならない、
などではじまる学園ものは、よくある。
正体のないものにモヤモヤすることは、映画では描けない。
なぜなら、映画は「カメラで撮る」ものだからだ。
具体的な「もの」を撮ることで、
抽象的な「こと」を表現するのだ。
初心者は、
物憂げに窓にもたれため息をつく、とか、
公園のベンチに座り空を仰ぐ、などの動作で心の葛藤を表現しようとする。
その人物が悩んでいることは見て分かるが、
その心の葛藤の中身は分からないし、そこに感情移入も出来ない。
それよりも、
新妻のエコー診断で、お腹の中の赤ちゃんがダウン症であることがわかり、
中絶しますか?と医者に言われ、しかし彼女の体は一度手術したら、
二度と赤ちゃんは生めませんよ、
と言われて、病院の廊下で椅子に座り深いため息をつく、
という表現のほうが、
よほど新婚の旦那の葛藤に感情移入出来るではないか。
二つの対立する選択肢をつくり、
それを選んだときどうなるかを示せ。
その間での峻巡が、感情移入に足る葛藤になる。
2014年06月25日
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