絵で語る、とは、何かを何かで象徴することだ。
映画は三人称形式だから、ものを撮る。
それで何か(たいてい内面)を象徴することが、映画的表現である。
「ピアノ・レッスン」(相変わらず邦題がよくない…)を例にとろう。
(以下ネタばれにつき、見てからどうぞ)
大きな小道具、ピアノは、主役のエイダそのものである。
言葉を失った彼女が、唯一表現できる手段がピアノだ。
ピアノは、彼女にとってのことばである。
ピアノを取り上げてしまうことは、
彼女からことば、意志を取り上げてしまうことに等しい。
「厄介だから」とピアノを放置した夫、
浜辺に放置したままのピアノの所まで連れて行き、
存分に弾かせてくれた間男。
エイダがどちらを取るか、明らかだ。
彼女を理解することは、ピアノを理解することだからだ。
物語は、ピアノをめぐって展開する。
それは、彼女自身の心と対応する。
間男は全裸になって自分の服でピアノを拭く。
(変態チックで笑いぎりぎりだが、好きな子のリコーダーをなめたい欲望と同じ、
きわめて神聖な愛の行為だ)
夫はピアノを取り戻し、部屋に閉じ込め窓に釘を打ち、かんぬきをかける。
彼女は夫の前で決してピアノを弾くことはない。
それは本心を見せないことの象徴表現だ。
彼女はピアノの一部、白鍵をラブレターにする。わたしの心はあなたのものです、という証に。
「ピアノをどう扱うか」が、「彼女をどう扱うか」を表現している。
ピアノを撮ることで彼女を象徴した、すぐれた表現だ。
物語はクライマックスで、
夫が彼女の指を斧で落とす、という衝撃的なシーンとなる。
(これに繋がるように、教会のお芝居の練習中、
「影絵で斧で指を落とす」伏線が前半でうまく引かれていることに注意されたい)
ピアノを弾く指=ことば=意志を永久に彼女から奪う、という支配だ。
ラストシーン、彼女はピアノを海へ落とす。
ピアノはもう彼女自身ではなくなったことの象徴表現だ。
海の底のピアノに彼女の死体が繋がれた、(想像上の)ラストショットは美しい。
彼女が生まれ変わったことを、裏から象徴する表現である。
「ピアノで彼女の心を象徴している」以外は、
わりとよくある、古典的な少女漫画の世界だと思う。
お金持ちの御屋敷だが命令的な御主人と、野卑で文化はないが繊細な野蛮人の対比は、
70年代の少女漫画だ。
だからこそ、根源的な、強い映画になったのかも知れない。
娘の存在がテクニカルである。彼女の翻訳者の役割と、
複数の立場に挟まれたメッセンジャーの役割をこなす。
セットアップが極めて短いことに、プロの技術を感じる。
「言葉をしゃべらないかわりにピアノは饒舌」という、
ピアノ(音楽表現と、ビジュアル上の象徴表現)ありきのセットアップが、
きわめて映画的である。
マイケルナイマンの音楽は、絶賛して絶賛しすぎることはない。
胸をかき鳴らすようなあの曲の正体は、熱情の孤独ではないかと思う。
つまり、曲自体が、彼女のテーマである「わかってほしい」ことを表現していると思う。
大学生時代、当時の彼女と見た映画だ。
そのときはよく分からなかった。
ピアノを弾く女はエロいなあ、ぐらいしか見ていなかった。
今ならわかる。
彼女は「自分を理解してほしい」と心から願い、
理解してくれない「世界」を拒絶していることが。
女にとってのエロとは、自分自身と引き換えであることが。
相変わらず邦題がよろしくない。
原題は「The piano」。
同時期公開に「ザ・ピアノ」というまる被りがあったため、
変更を余儀なくされた事情があったらしい。
「ピアノ・レッスン」は密室のエロを匂わせて秀逸だ(客引きにはなる)が、
本編の、ピアノ=彼女という象徴性をまったく表現しきれていない。
(そもそもレッスン中に愛が芽生える、未熟な彼女におっさんがレッスンして…
という話じゃないし)
「海の底のピアノ」(ネタバレを気にするなら「海辺のピアノ」)
「彼女のピアノ」
などのようにしたほうが良かったのではないだろうか。
ちなみに、よろしくない邦題に、新しくタイトルをつけなおすことは、
映画自体をきちんととらえる練習と、ことばでそれを表現する練習になる。
おススメのトレーニングだ。
「きみが僕を見つけた日」「愛が微笑む時」は、映画自体は秀作なのに、
邦題がよろしくない。(原題は「Time traveller's wife」「Heart and Souls」)
トレーニングにどうぞ。
2014年06月26日
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