2014年06月27日

物語とは「私は愛されている」ではない

大体、小説や脚本を書こうと思う人間が、リア充なわけがない。
自分の人生や自分に何かが足りないから、そちらへ逃げるのだ。
強い人間ならとっくに実人生でオラオラ体育会系のように生きている。
これは自分だけでなく、ライター志望の殆どが、と思ってよい傾向だ。
こういう人たちが初めて書く話は、パターンが決まっている。

主人公は「私」一人称(もしくはその投影の濃い三人称)で、
特殊な物語的状況におちいり、何かの奇跡が起きて、
「私は愛されていた」と気づく話だ。

それは、無意識の自己承認欲求を具体化しただけの、
陳腐なお話になる。


「自分は認められたいと思っている」ことを、
まず自覚したほうがいい。
それが無意識の自分の目的であることを、
自覚したほうがいい。
それを、まず無意識から意識に上らせておくことだ。

ここで、とある他人、
例えばスポーツ選手や会社員を眺めてみよう。
あなたが、身内でもないそのへんの他人である彼らを称賛するのは、
いつだろう。いつ、あいつはすごい、と言うだろう。

実績を上げたときだ。

他から目立つ、際立った目に見える才能で活躍したときだ。
分かりやすいのは優勝だ。


他人ならこのように簡単に分かることが、
自分の書く世界では分かっていない。
何故か才能もない主人公が、
なにもせず奇跡だけが起きて、
実績を自力で上げることもなく、
自分が愛されてることが分かってカタルシスで終わりなのだ。

これを、自分に甘く他人に厳しいとか、
ダブルスタンダードなどという。

これまでたびたび議論してきたことだが、
一人称と三人称の差だ。

一人称では自分に甘く、
三人称だと他人に厳しいのだ。


まず、これに自覚的になろう。

映画は三人称形式である。
一人称の甘えの世界ではなく、
三人称の他人の世界だ。

あなたの書く主人公は、
スポーツ選手や会社員と同じだ。
目に見える、優勝のような実績を上げない限り、
この人すごい、と思われないのだ。

この人すごい、と思われたいあなたが主人公ではない。
あなたがこの人すごい、と思うような話を書くのである。


そのとき、優勝やMVPのような明確な分かりやすい基準を持ってくるのが、
ハリウッド映画の特徴だ。
そうでない、無冠で目立ってはいないが本当のヒーローは彼だ、
のような話が日本人やヨーロッパ人は好きである。
(試合に負けて勝負に勝つ、とか、プロジェクトXとか)
その世界の優勝の基準をそっちに描くことで、
「真の」優勝を描く、という考え方だ。

主人公は正義でなければならないわけではない。
ハリウッド映画を、正義絶対主義的であるとするなら、
日本人やヨーロッパ人は正義相対主義を好む。
(フランス人はむしろアンチアメリカにアイデンティティーを見いだす。
僕は大阪人なので、アンチ巨人である阪神ファンと同じ精神構造だと思い、
親近感を抱いている)

いずれにせよ、その世界の優勝の基準は、その世界の中で立てられる。
やりかたによっては悪魔さえ映画では主人公に出来る。
(原作版「デビルマン」を読んだことのない人は、是非漫画喫茶ででも読むべきだ。
あれはすでに70年代にかかれたのだ)

三人称で描く内容は、
その世界の基準での、優勝である。


初心者が一人称的に書いた主人公は、
「なにもせず甘えたまま愛されること」の優勝を描いている。
しかも無自覚的に。
そんな話、オモロイわけないやんけ。



僕は「かもめ食堂」が大嫌いだ。
今はなきシネスイッチで並んでまで見たが、
最も嫌いなシーンが、プールで唐突にみんなに拍手されるシーンだ。

主人公は淡々と食堂を営んだだけで、
客が反発しながらも徐々に増えたわけでもなく、
自分を引き換えにするほどのリスクを犯したわけでもなく、
淡々としただけで「何故か愛される」のだ。
今までの議論と同じである。

ところが、これが主婦層に受けた。
主婦は、今まで淡々と家事をやってきて、
誰にも誉めてもらえなかったから、映画の中で自分が誉められたような気になったのだという。
受けた、というのは「自分の願望が描かれていた」ことであり、
「説得力があった」こととは関係がない。
(最近では、「アナと雪の女王」のLet it goが思い出される)
あのシーンだけ、主婦の一人称になっているのだ。

主婦でない僕は、あのシーンが嫌いだ。
これを、映画のターゲットではないから、と非難してはならない。
映画とは、全ての人に説得力を持つ、三人称文学であることを、
忘れてはならない。


最近のラノベ的アニメによくある、
普通の高校生の僕が何故かモテモテ、とか、何故か世界の救世主に、
とかの設定が、僕はあまり好きではない。
のび太症候群ともいえる精神疾患をそこに見る気がする。
(にも関わらず「マトリックス」が好きなのは、
圧倒的な世界構築があるのと、パロディとして見ているからだと思うが)

乞食が最も王様に近いのだ、という世界の逆転は、
じつは中世からあったのび太症候群かも知れない。
しかし、三人称文学である以上、
その世界の基準をつくらなければ説得力もないだろう。



あなたの主人公を、
あなたが他人を認めるときと同じくらいの基準で、
あいつすごい、という話を書こう。
あいつはラッキーでしかない、という話はイマイチだろう。
ラッキーだったかも知れないが、その先はあいつがすごいから成し遂げられたのだ、
というのは「ロッキー」のパターンだ。

あいつすごい、という話は、
優勝や、実績や、自力(やチーム)で何かを成し遂げる話になる。
三人称文学とは、「他人に関するお話」である。

あなたの自己承認欲求は、そんなすごい話を書いた作者、ということではじめて認められる。
posted by おおおかとしひこ at 13:20| Comment(1) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
質問させてください。
映画が三人称文学でなければならないことは、何となくわかりますが、
映画はどんな映画でも、全ての人を対象として作られるべきものなのでしょうか?
誰が観ても納得するようなお話?ターゲット次第なのでは?
共感と感情移入が違うといいますが、感情移入もターゲット次第なのでは?
イマイチわからんのです、、、。

漫画は掲載誌で既に男女差、年齢差を考慮して作られていると思うんですが、
映画はどうなんでしょうか?テレビドラマは?CMは?

それから、大岡監督の漫画、ドラマの
オールタイムベスト、オールタイムワースト気になっています。
是非、記事にしてください。

Posted by スタンドバイミー at 2014年06月28日 01:32
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