風魔の7話「忍び、青春す」の「玉ねぎのシーン」を例にとろう。
風魔の忍び達が、忍びでなかったらどうだったろう、
普通の高校生として、青春していたのではないか、
と真面目でバカなことを話すシーンだ。
このシーンでは、匠の技が使われている。
これは、ただ話すのではなく、
「玉ねぎの皮を剥くという作業をしながら」話すという技だ。
芝居の世界では「モップをかける」として知られる。
台詞を自然に言えないときは、モップをかけるような、
日常的な反復作業をしながらがよい、という経験則だ。
(「波止場」では、マーロンブランドが、公園で彼女の手袋を自分にはめてみる、
という芝居をしながら台詞を言う場面がある。これは彼のアドリブだという)
日本映画の世界では、煙草をもたせろ、と伝統的に言われてきた。
煙草が衰退して、これがやりにくい。
話すために話す(喫茶店での別れ話、会議室での打ち合わせ)のではなく、
何気ない日常会話を引き出すための場面だ。
何気ない日常作業であれば、この場合なんでもよく、
掃除でも炊事でも選択でも修行でも通学路でもいい。
だから玉ねぎという小道具は、たまたま(予算の関係で)選ばれただけで、
実はなんでもいい。
従ってこれはマクガフィンである。
(もともと庭か縁側で撮影予定だったものが、雨が降って室内に変更したかもだ)
マクガフィンの機能は何度も書いているが、
実はこれはそれがなんでもいい割には、
イコン化しやすいということだ。
イコンはアイコンとも発音される、
「その絵で記憶される」場面のことである。
このシーンはファンの中でも人気のシーンのひとつ(全く風魔は人気のシーンだらけだが)
だが、そのときこのシーンは、
「もしも普通の高校生だとしたら」という「意味」で呼ばれることなく、
「玉ねぎのシーン」と、「絵の名前」で呼ばれる。
勿論、玉ねぎに「普通の高校生」の象徴性はない。
だからマクガフィンなのだが。
マクガフィンは、それがなんでもいいのなら、
イコンになりやすいものを選ぶとよいだろう。
玉ねぎは、その可愛さもあってとてもいいチョイスだと思う。
(園子温は、それをキリスト教や文学などの小難しいものに、
イコン化したがる作家である)
2014年06月27日
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