2014年06月27日

マクガフィンは、イコンとしても使える

風魔の7話「忍び、青春す」の「玉ねぎのシーン」を例にとろう。


風魔の忍び達が、忍びでなかったらどうだったろう、
普通の高校生として、青春していたのではないか、
と真面目でバカなことを話すシーンだ。

このシーンでは、匠の技が使われている。
これは、ただ話すのではなく、
「玉ねぎの皮を剥くという作業をしながら」話すという技だ。

芝居の世界では「モップをかける」として知られる。
台詞を自然に言えないときは、モップをかけるような、
日常的な反復作業をしながらがよい、という経験則だ。
(「波止場」では、マーロンブランドが、公園で彼女の手袋を自分にはめてみる、
という芝居をしながら台詞を言う場面がある。これは彼のアドリブだという)
日本映画の世界では、煙草をもたせろ、と伝統的に言われてきた。
煙草が衰退して、これがやりにくい。

話すために話す(喫茶店での別れ話、会議室での打ち合わせ)のではなく、
何気ない日常会話を引き出すための場面だ。

何気ない日常作業であれば、この場合なんでもよく、
掃除でも炊事でも選択でも修行でも通学路でもいい。
だから玉ねぎという小道具は、たまたま(予算の関係で)選ばれただけで、
実はなんでもいい。
従ってこれはマクガフィンである。
(もともと庭か縁側で撮影予定だったものが、雨が降って室内に変更したかもだ)

マクガフィンの機能は何度も書いているが、
実はこれはそれがなんでもいい割には、
イコン化しやすいということだ。
イコンはアイコンとも発音される、
「その絵で記憶される」場面のことである。

このシーンはファンの中でも人気のシーンのひとつ(全く風魔は人気のシーンだらけだが)
だが、そのときこのシーンは、
「もしも普通の高校生だとしたら」という「意味」で呼ばれることなく、
「玉ねぎのシーン」と、「絵の名前」で呼ばれる。
勿論、玉ねぎに「普通の高校生」の象徴性はない。
だからマクガフィンなのだが。

マクガフィンは、それがなんでもいいのなら、
イコンになりやすいものを選ぶとよいだろう。
玉ねぎは、その可愛さもあってとてもいいチョイスだと思う。
(園子温は、それをキリスト教や文学などの小難しいものに、
イコン化したがる作家である)
posted by おおおかとしひこ at 15:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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